2018年10月19日金曜日

ドラえもんとマリオ

Animae Parallelae I
アニマエ・パラッレラエ~並行霊魂  其の

 2016年リオ五輪閉会式・東京五輪告知映像に登場したキャラクターを比較します。





リオ五輪閉会式・東京五輪告知映像




土管のつながり


 2016年リオデジャネイロ五輪の閉会式で、2020年東京五輪にむけての五輪旗引き継ぎ式のさいに上映された映像は、日本のアニメやゲームのキャラクターを大胆に取り上げた斬新なもので、国内外で話題になりました。そのクライマックスで、ドラえもんとマリオが協力して土管を使う場面があり、東京とリオをつなぎ、また仮想と現実の世界をつなぐ道具として使われていました。









 マリオの生みの親・宮本茂さんは、マリオのゲームに登場する土管は、「昔のマンガ」の土管だと言います。ドラえもんもふくめ昔のマンガには空き地が出てきて、そこには必ず土管がおいてあった。当時日本じゅうでインフラ(社会基盤)の整備が進み、工事が行われていたことから、空き地がその資材の置き場として使われていたのです。当時のこどもたちは土管のある空き地であそぶことが多かったので、その世代の人にとっては「土管に入ってみる」ということも実地の経験だったわけです(公園の遊具でも、体を使うだけでなく、いろいろな想像の世界であそぶよすがになっていますね)。


 この映像に用いられたキャラクターたちは、インフラという「ハード」の準備を整えた日本が作り出した「ソフトパワー」の一部であり、その魅力を用いて、日本の技術力を表現した、というふうに見ることもできるのではないかと思います。もちろんいきなり土管が出てきて納得してもらえるのは、マリオのゲームが世界で遊ばれているからできたことでしょう。ドラえもんはアジアでは根強い人気がありますが欧米などではそこまで知られていませんので、映像のなかではマリオが一番有名なキャラクターとして中心的要素を担っていました。



Deraemon 100哆啦a梦 
上海でひらかれたドラえもん展のようす



まんが道



 藤子不二雄が富山県の歴史ある小都市、高岡から意を決して漫画家になるべく上京したのは昭和二十九年(1954)。日本が七年間の連合国軍による占領統治から独立して二年がたち、高度経済成長の時代がはじまろうとしていました。この年、戦後日本映画の金字塔「七人の侍」(黒澤明)と、世界にその名を知られることになる聖獣「ゴジラ」とがともに生み出されています。藤子不二雄のふたりはこの年ちょうど二十歳でした。


 ふたりの憧れと導きの星だったのが手塚治虫です。こちらもそのころまだ二十代中頃でしたが、かれらにとっては大先生でした。ファンレターを出して返事を貰ったことにはじまり、上京の二年前には兵庫に住んでいた手塚の実家を訪問していましたが、手塚はその翌年から東京都豊島区にあった木造のアパート、トキワ荘に移り住んでいました。ところが次の年ふたりが上京したあとに手塚さんはそこを引き払うことになったので、その部屋に入居することができました。手塚さんはお金が用意できないふたりのために敷金をそのまま残していったそうです。
 

 トキワ荘の仲間とは「サイボーグ009」「仮面ライダー」の石ノ森章太郎や、「おそ松くん」「天才バカボン」の赤塚不二夫たちでした。50年代当時これらのヒット作はまだ作られていませんでしたが、手塚治虫の背中を追いかけ、頼りになる先輩「テラさん」こと寺田ヒロオに助けられて、かれらはあやうく挫折を免れながら、励まし合いながら漫画を書き続けていきました。当時の様子は藤子不二雄安孫子素雄さんの「まんが道」に描かれています。あまり社交的でなく「ドラえもん」のようなファンタジーを描き続けた藤子・F・不二雄こと藤本弘さんと対照的に、実生活の経験から着想を得るようになっていった我孫子さんの真骨頂といえる作品だと思います。



復興の五輪


 藤子不二雄の上京から十年後の1964年には、日本の復興を象徴する初の五輪大会、東京オリンピックが開催されました。又この年世界初の高速鉄道、東海道新幹線が開通しています。藤子不二雄はそのころもうトキワ荘を出て仲間たちと「スタジオゼロ」を設立していましたが、ここで1964年から描き始められた「オバケのQ太郎」は社会現象と言えるほどのヒット作にまで育っていきます。その媒体になったのは当時モノクロでのアニメ放送でしたが、70年代の第二回アニメ化ではカラーとなり、80年代には「ドラえもん」がやはりアニメをきっかけに成功をおさめ、国民的な人気作品になりました。



Feliz cumple a Mi SuperMario!!!
アルゼンチンの方の撮ったマリオ誕生日の写真




遊びをつくる



 宮本茂さんは1952年生まれで、東京五輪の1964年には十一歳の少年でしたが、そのころの子供たちが遊ぶときにゲームはまだありませんでした。宮本さんはずっと漫画家になりたかったそうです。本来は映画を作りたかった著名なアニメ監督や漫画家がいますが、宮本さんは漫画は競争がきびしいのであきらめ、おもちゃをつくるために入った任天堂で、ゲーム作りをしてみておなじような創作のたのしさを感じたといいます。


 1889年、任天堂の前身となる商社が京都でつくられました。賭博の道具としてタブーとなっていた花札の販売がはじまり流行していたその当時、伝統的でありながら低コストにおさえた花札を生産することで成功をおさめました。1902年には日本ではじめてトランプを販売。その後玩具の技術の高度化が進むなか若い技術者を雇い入れて試行錯誤を重ねましたが、そのなかで1977年二十四歳の宮本さんが入社します。すでにTVゲーム業界に進出していた任天堂は1980年、宮本さんに先んじて入社していた横井軍平の着想から、携帯型ゲーム機ゲームウォッチを発売し大ヒットとなります。他社も液晶ゲーム機で追随しました。



 1981年に宮本さんがアメリカの市場で売るためにアーケード用につくったゲーム「ドンキーコング」にマリオははじめて登場しました。当初からマリオは跳躍して活躍するキャラクターでした。このゲームが宮本さんがデザインした第一作目で、さいしょにつくったゲームがアメリカを意識したものであったことが、海外の人たちに遊んでもらうものをつくり、世界的展開を考えてゆくきっかけになったそうです。このドンキーコングの回路から家庭用ゲーム機をつくるという構想から、ファミリーコンピュータの開発がはじまります。ファミコンは低価格高機能で、多様なソフトに対応する汎用性の高さから人気を獲得していきます。1985年に宮本がファミコンゲームの集大成として開発した「スーパーマリオブラザーズ」は世界的ヒット作となり、ファミコン本体の普及を大きく後押し。ファミコンは当時の子供の遊びの中心になりました。



可能性のかたち


 考えてみれば、数限りないいろんなゲームができるファミコン、際限なく未来の道具がとびだすドラえもんのポケットはそっくりだとも言えます。ファミコンの機能はもちろん今からみれば限られていましたが、制限があるなかのほうが個々のアイディアが輝いていたかもしないし、体感的な可能性のひろがりは大きかったかもしれません。ドラえもんのよくできた単純な世界であればこそ、ほかのもっとダイナミックな漫画のような「インフレーション」(過剰、飽和)もなくシリーズを続けることができました。技術がますます加速度的に高まっていく時代だからこそ見直すべきなにかがそこにあるのではないでしょうか。



1964年東京五輪のポスターと2020年東京五輪告知映像







参考

https://trendy.nikkeibp.co.jp/article/special/20081001/1019315/

https://topics.nintendo.co.jp/c/article/cb4c1aca-88fb-11e6-9b38-063b7ac45a6d.html

https://www.1101.com/nintendo/miyamoto2015/

https://www.asahi.co.jp/50th/fujiko_a.html

http://bunshun.jp/articles/-/6659


https://www.nintendo.co.jp/n10/interview/game_and_watch/vol1/index2.html

藤子不二雄Ⓐさんの公式サイトで「まんが道」第一巻を読むことが出来ます。

https://fujiko-a.com/




              




 付録・歴史覚書



・1954年につくられた映画「ゴジラ」は、この年に西太平洋のビキニ環礁で米国によって行われた水爆実験で、日本の漁船第五福竜丸の乗員が被爆した事件に触発されて構想されました。この実験でビキニ環礁の住人たちは外部への移住を強いられていまだに帰ることができていません。この事件は国際的な原水爆反対運動が起こる契機となりました(第5福竜丸事件)。

・1954年、朝鮮戦争(1950~53)勃発をうけて、朝鮮半島に送られる駐留米軍の穴をうめ補完するものとしてGHQの指示でつくられた警察予備隊が、52年の保安隊への改組を経て、自衛隊として発足しました。日本国は憲法9条で戦争を放棄したものの、国際法でみとめられた自衛権は持っている、という立場を政府はとりましたが、9条の徹底による非武装中立をかかげる社会党と対立しました。

・1954年インドシナ戦争(1946~1954)がおわり、ふたたびインドシナ半島を支配するために進駐したフランス軍を、社会主義のベトナム民主共和国がしりぞけました。この戦争で米国は共産主義封じ込め政策の一環としてフランスに膨大な軍事援助を行いました。1954年ディエンビエンフーの戦でフランスの敗北が決定的となりました。

・1954年アルジェリア民族解放戦線(NLF National Liberation Front)が蜂起し、で62年までの8年間フランスとの間でアルジェリア独立戦争(1954~1962)が戦われました。現在でもアルジェリアに対する植民地政策についての認識は、フランス政治において大統領選などの争点になります。この戦争中、アルジェリアの西と東に位置するモロッコとチュニジアがともに1956年、独立運動の高まりを受け仏政府に独立を承認させました。さらに、1960年には旧フランス植民地14カ国をふくむ17カ国がアフリカで独立し、「アフリカの年」と呼ばれました。しかし国境線は欧州列強が支配する上でひかれたものであったため、その後各地で民族間の内戦が発生しました。



1964年、民主党ジョンソン政権下で、ベトナム戦争への介入拡大のための捏造事件という批判されるべき事件と、人種差別を禁じる法律の成立という大きな功績がありました。


・7月、ジョンソン政権下で公民権法が制定され、アメリカにおいて人種差別が法的に禁止されることになりました。おなじ年、前年のワシントン大行進で「I have a dream」の有名な演説を行ったキング牧師がノーベル平和賞を受賞しました。

・8月、米軍の駆逐艦が北ベトナム軍の魚雷艇に攻撃されたという、トンキン湾事件が起き、米国のベトナム戦争への本格介入、翌年からの北爆の口実となりましたが、のちにニューヨーク・タイムスの記事により捏造であることが判明しました。


五輪開会の十月十日は翌々年(1966)から「体育の日」に定められましたが、2000年からは十月の第二月曜日に変更されました。


・この五輪で柔道がはじめて五輪競技として登場し、無差別級をのぞいた全階級で日本が金メダルを獲得しました。また当時負け知らずで国内で「東洋の魔女」と呼ばれていた日本代表女子バレーチームはソ連をやぶり金メダルを獲得、のちにやぶれるまで実に公式戦258連勝を誇りました。そのほか日本選手は体操、ことにレスリングで多数優勝し、日本はアメリカ、ソ連に次いで三番目に多くの金メダルをとりました。(また、中華民国が独立した国として参加していたことを不服としてIOCを脱退していた中国は不参加で、会期中に核実験を行ってアジア初の核保有国となりました。)


・五輪開催と同年に開通した東海道新幹線は世界初の高速鉄道であり、これに続いて80年代から欧州でも高速鉄道の実用がはじまりました。新幹線は時速200メートル以上の速度で走行する旧国鉄・現JRの幹線鉄道を指します。江戸時代から日本では、京阪地区と江戸をむすぶ東海道の交通が他を圧して多かったのですが、現代でも東海道沿線地帯は人口の多い工業密集地帯です。五輪開催に際しては、音楽の公演会場としても名高い日本武道館や、今回の五輪でも改装されて使用される予定の国立代々木競技場など、大会の使用にあてるためさまざまな社会基盤がつくられました。




          




仏大統領選 植民地抑圧も論戦に (毎日新聞)
バレーボール女子日本代表”東洋の魔女”を振り返る(スパイア)
https://spaia.jp/column/volleyball/1128?page\x3d1\x3cbr

新幹線(コトバンク)
https://kotobank.jp/word/%E6%96%B0%E5%B9%B9%E7%B7%9A-81445




                                  

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