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2018年11月24日土曜日

Kick and Jump - キャプテン翼とジャンプ

Animae Parallelae IV
アニマエ・パラッレラエ~並行霊魂  其の四

 2016年リオ五輪閉会式・東京五輪告知映像に登場したキャラクターを比較します。





リオ五輪閉会式・東京五輪告知映像




後発誌の戦略



「週刊少年ジャンプ」は、「マガジン」「サンデー」がともに発刊された1959年から9年後の1968年に創刊され、ことしで誕生から50週年をむかえました。後発となったジャンプは、すでに人気作家を抱えた両誌にネームバリューで対抗することが望めませんでした。マガジンは国民的人気漫画となった「巨人の星」や「あしたのジョー」、さらに「ゲゲゲの鬼太郎」や「天才バカボン」のような今に至るまでリメイクされている有力作品を擁していました。このことから
賞をつくって作品を公募することで新人発掘をすること、さらには読者アンケートで作家を競わせることがジャンプ独自のスタイルとなりました。新人たちは安定した技術よりも、破天荒なものをつくりだす荒削りな可能性をもちこんで、誌上で才能を開花させていきました。のちに「デビルマン」や「マジンガーZ」をつくりだす永野豪のお色気漫画「ハレンチ学園」や、本宮ひろ志の「男一匹ガキ大将」が、スキャンダルをまきおこしながらジャンプの人気を高めていきました。ジャンプは創刊から5年でマガジンを超えて、雑誌発行部数で首位に立ちました。





格闘漫画の路線




作画の上手な作家がサンデーやマガジンに集まる中、ジャンプは読者の人気があれば絵のうまさは問わないという方法で漫画を掲載していきました。若い勢いを活用するこうしたやり方を見ると、たとえばいま日本の漫画に惹かれているヨーロッパの人たちなども、専門学校を出たりして絵のうまいひとはすごく達者なのですが、そんなふうに漫画そのものの個性と面白さで作風をつくっていく環境が欠けているように見えます。日本のように漫画雑誌がたくさんあって毎週毎月読まれている状況がありません。ジャンプでは80年代に「Dr.スランプ」の鳥山明が登場してから、ポップなイメージからか女性の読者が増え、従来はもっぱら男性むけの内容だった掲載作品のスタイルにも幅がくわわってきました。ところが、そのころライバル誌のサンデーで高橋留美子の「うる星やつら」やあだち充の「タッチ」のラブコメ路線が大人気を博することになったので、ジャンプはこれに対抗してどのような方向性をとるか、内部で話し合われることになりました。同じ方向性をとって流れに乗るべきだという意見が多い中で、結論は編集長の独断によって出され、ジャンプはそれとは反対の男性的な格闘漫画を掲載していくことになりました。





アニメ化から世界へ



この路線で試行錯誤が繰り返されるなか最初にヒット作として登場してきたのが、武論尊・原哲夫の「北斗の拳」でした。続いてゆでたまごの「キン肉マン」、車田正美の「聖闘士星矢」、そして高橋陽一の「キャプテン翼」がつぎつぎと成功をおさめました。戦前から野球が国民的スポーツである日本では、しぜんと野球漫画に人気がありました。ところがこの作品はJリーグなどのなかった時代、世間にサッカーブームを作り出してしまったすごい漫画でした。この作品は、おなじ年からサンデーで連載が開始された野球漫画「タッチ」とともに、従来の「泥臭い」スポーツ漫画とは異なる「爽やかな」スポーツ漫画の走りだったのではないかと思います。欧州や南米をふくむ世界の多くの国では、日本やアメリカとはちがい、サッカーが国民的スポーツです。このことから、海外では日本のスポーツアニメのなかで、「キャプテン翼」がダントツに人気があります。南米もまたこの例にもれないことから、東京五輪の紹介映像のなかでも登場アニメのひとつに選ばれ、映像が登場したときには歓声が上がったといいます。事実世界のサッカー選手のなかにも、元スペイン代表で現在京都サガン鳥栖でプレイするフェルディナンド・トーレス選手をはじめとして、子供のころに影響を受けたり、刺激をうけてサッカーをするようになったファンが少なからずいるそうです。





競争と加工と



競争によって切磋琢磨し名声をきそうという文化は、古代ギリシアで生まれて、オリンピック競技大会の形で現在にまで伝えられています。古代の『オリンピアの祭典』の期間中には、ふだん都市国家間の戦争が絶えなかったギリシア全土が休戦状態に置かれました。平和の祭典という捉え方もこのことに根拠が求められます。このほかにもアテナイでは毎年酒神ディオニュソスに捧げる『ディオニュシア祭』において、ギリシアで盛んだった悲劇のコンテストがひらかれていました。文芸・演劇でも競技が行われ賞が与えられていたわけです。



日本には昔から「鳥獣戯画」や「北斎漫画」のような滑稽味のある単純な様式の絵の楽しみ方がありましたし、順番に内容をたどっていく絵巻物をアニメーションや漫画の前身としてとらえる見方もあります。しかし直接的には19世紀に西洋から入ってきた風刺漫画にはじまった日本の漫画は、明らかに独自の発達をとげて、「マンガ」とよばれたり、元々はアニメーションの略である「アニメ」も海外でかなり一般的な言葉になっています。まさに輸入と加工から独自なものを作り出す日本の文化らしい成り行きだと思います。





海外のファンによるジャンプ原作のアニメの主題歌カバー集
(キャプテン翼・聖闘士星矢・ドラゴンボール・スラムダンク)






フランス代表エムパペ選手が負傷した自分をキャプテン翼になぞらえたインスタグラムの投稿




参考



「君はキリアン・ツバサだ!」フランス代表の新星、エムバペが大空翼との意外な共通点を報告! 世界中から大反響https://www.soccerdigestweb.com/news/detail/id=50610
「キャプテン翼」からサッカーの素晴らしさを教えてもらった世界中のプロ選手たち
https://gigazine.net/news/20131215-football-player-influenced-captain-tsubasa/

創刊50周年「ジャンプ」伝説の元編集長が語る「鳥山明をめぐる社内政治」ASAHIdot.https://dot.asahi.com/dot/2018021300102.html?page=1
『Dr.スランプ』で「マシリト」と呼ばれた男・鳥嶋和彦の仕事哲学 #SHIFT
http://www.itmedia.co.jp/business/articles/1810/30/news005.html
外国人漫画家が語る自国の“日本漫画&アニメ”事情 産業としての成熟はこれから 山陽新聞digital
https://www.hokkaido-np.co.jp/article/242397

BS1スペシャル 「ボクらと少年ジャンプの50年」 2018.07.08

2018年11月10日土曜日

ドラえもんと未来からの帰還

Animae Parallelae II
アニマエ・パラッレラエ~並行霊魂  其の二

 2016年リオ五輪閉会式・東京五輪告知映像に登場したキャラクターを比較します。





リオ五輪閉会式・東京五輪告知映像



1979


 1985年のアメリカ映画『バック・トゥ・ザ・フューチャー』は世界中でたいへん人気があります。私も子供のころにテレビ放映で見て楽しみましたが、あとになって愛着をもって振り返るほどの関心はありませんでした。そこで客観的に見直すために、当時のわが国でよく似た立ち位置にある作品はあっただろうかと考えてみると、ほかにもいろいろ挙げられるかもしれませんが、家庭的雰囲気のなかで世代を超えて愛されている、『ドラえもん』のことがまず思い浮かびました。


 1979年に『ドラえもん』のテレビアニメの放送がはじまりましたが、73年にいちど実現して打ち切りとなった事情があったため、制作スタジオは「アルプスの少女ハイジ」の演出家・高畑勲さんの協力を得て、企画書をつくり原作者の藤本弘さん(藤子・F・不二雄)に見せて説得をしたそうです。時として深刻なテーマを扱いながらも、くりかえし素朴なまんが映画としてのアニメーションに立ち返った監督・高畑勲は、やはり素朴なスタイルの漫画を子供のために描き続けた、藤本弘の代表作の名声確立にも貢献していたわけです。



 それとはまったくちがう方向性で、ロボットアニメの様相を一新させてしまった『機動戦士ガンダム』が翌年までの放送を開始したのも、おなじ79年でした。ちなみに、この年は映画版「銀河鉄道999」や、高畑さんの手をはなれ作画家から演出家となった宮崎駿の映画第一作「カリオストロの城」が上映された、アニメーションの「当たり年」でした。



二つの空想科学譚


 サイエンス・フィクションのジャンルは、あたかも宇宙のさまざまな神秘に対する窓口のように、暗く恐ろしいものをしばしば表現しますが、80年代の文化の明るく朗らかな性質は、このジャンルでも活発で爽快なエンターテイメント作品を数多く登場させました。未来からタイムマシンに乗って主人公を助けに来る、風変わりな老人や、のんきな猫型ロボットの存在によって、卑近な日常がそれと同時に非日常でもある世界。この対比そのものがコミカルな効果を発揮しています。猫型とはいっても耳もなく、雪だるまのような体型で、世話焼きおばさんのようなドラえもん、もう一方では目つきのおかしな、白髪をふりみだした落ち着きのない変人科学者ドクが、作品に明るさを与えています。







 『バック・トゥ・ザ・フューチャー』のマーティンはのび太とちがって、おっちょこちょいではあるかもしれないが、ロックを演奏してスケボーもやる活発なタイプです。その彼が、のび太のように気弱な性格をした父親の若かりし時代にタイムスリップして、事情がこんがらがったあげく、叱咤激励して勇気をふきこむ役割になる。そうしてみると、両作品の構図はそっくりです。ドラえもんは、のび太くんの孫の孫(やしゃご)が、頼りないひいひいおじいちゃん(高祖父)のせいで傾いた家運を向上させるために、未来から連れてきたのでした。そののび太くんも、長編作品のなかではより感情表現が豊かになり、行動力も見せるようになります(もっとも、そうでなければ物語が展開しないでしょう)。


 『ドラえもん』は連載ものですから、タイムマシンによる物語構造だけでなく、一回ごとに異なる未来の道具が、個別の物語の枠を提供しますから、一回ごとがSF短編だとも言えます(とはいえ、SFというよりもおとき話のように見えることもしばしばですが)。ドラえもんのほうは時にトチ狂うことはあっても、基本的にのんびりした趣のキャラクターであり、連続ものによく合っており、科学者ドクのほうはジェットコースターのようなエンターテイメント映画にお似合いです。どちらの作品もキャラクターがよく立っていて、「ガキ大将」のステレオタイプ(紋切り型)「ビフ」と「ジャイアン」などはそっくりです。ビフは機会さえゆるすなら、あくまでも悪辣な人間であるのに対して、ジャイアンは長編のなかでは仲間の力になり、いいところを見せる。これなどは、現実の多面性をよく表していると見ることもできるでしょう。



日常と冒険


 『バック・トゥ・ザ・フューチャー』に登場する機械は基本的にはコメディ風の楽しい小道具・大道具ですが、そのうちにはいくつかとても格好よいものがあります。タイムマシンでもある車「デロリアン」は、当時流行していたラジコンのコントローラーで動き回ります。たぶんこの映画にはストレートな物欲、「車を買ってとばしたい!」というような気持ちがこめられているのではないかと思います。実際に主人公は車をほしがっていますが、かれの憧れはトヨタのハイラックスという車でした。そのほかにも、第二部のバーの場面では、任天堂のファミコンソフト「ワイルド・ガンマン」がゲームセンターの筐体として登場します。マーティンがこのゲームを得意だということが、第三部の西部劇篇の伏線になります。このモチーフは「ドラえもん」と共通していて、全体としてはドジなのび太くんの数少ない特技のひとつが、モデルガンの早撃ちで、これが長編のなかで敵とたたかう武器になります。







 『バック・トゥ・ザ・フューチャー』でもうひとつ格好よい道具が、エア・サーフボードで、これは「空を飛びたい」という素朴な気持ちを、やはり当時流行していたスケボーに結びつけたものだと思います。『ドラえもん』の道具はもっと見た目はシンプルですが、ひとつひとつに独創的なアイディアが盛り込まれています。こちらの作品で欠かせない「空を飛ぶ」道具はもちろん、「タケコプター」です。昔ながらのおもちゃ竹とんぼをSF仕立てにした、いかにもまんが的でおおらかな着想です。タイムマシンは時間を旅するための機械ですが、空間を自由に移動することができる「どこでもドア」はいかにも魔法の道具のようで、最もイメージ的に成功したドラえもんの道具の一つでしょう。


 どちらの作品にも、お茶の間のような、街の広場のような、「みんなが集まるところ」という安心感があります。その反面、変化にとぼしい型通りの世界だから平板なのですが、時間旅行の要素が物語に奥行きを与える働きをしています。マーティンは自分が偶然ひきおこしたとはいえ、父親の問題を捨て身の行動で解決し、性格の矯正にさえ成功します。こうして問題を解決して物語が終わるのですが、「ドラえもん」は基本的に終わりのない物語です。対照的に「バック・トゥ・ザ・フューチャー」は行動的な、駆け抜ける動的な物語です。ドクは主人公の年長の友人のような存在です。たとえあまり頼りにならない性格でも、そういう人がいてくれると精神的に助かるということは、人生においてじっさいにあるでしょう。ドラえもんのほうはどうかといえば、やはり「そこにいてくれる」存在です。かわいいのだが、同時にまた世話をしてくれる保護者的な性格で、そう思うと、どこかお地蔵さんのようです。


 

両作品の主人公は小学生と高校生でだいぶ年齢の開きがあり、同じ基準で論じることはできません。しかしどちらも場合も、本質的に英雄的ではなく、ただ常日ごろの問題を解決しようとあがいている日常的な人間であるという点は、重厚な叙事的作品よりもかえっていっそう普遍的なのではないでしょうか。








                             



付録・歴史覚書


1979年は1972年のニクソン訪中にはじまる米国の中国への歩み寄りが結実し、米中国交樹立が成立した年でした。日本は米国の要請により台湾との国交を結んでいたため訪中に衝撃を受け、72年ニクソンのあと田中角栄が訪中し日中共同声明で日中国交正常化を行いました。

しかし同時にこの年には、旧連合国側の社会主義国家である中国とソ連が他国へ侵攻した年でもありました。中国はベトナムに侵攻しましたが、これは中国が支援するカンボジアのポル・ポト政権を侵攻により崩壊させたベトナムに対する「懲罰」が意図されていました。中国軍はこの戦いで大きな被害を受けて年内に撤退しました(中越戦争)。

一方ソ連は、アフガニスタンの社会主義政権を支援するため同国に侵攻しましたが、これに対して米国を中心とする国々が反発し、翌年のモスクワオリンピックをボイコットする事態となりました。この事件をきっかけに70年代の「デタント」(東西陣営間の緊張緩和)はおわり「新冷戦」の時期がはじまり、ソ連は改革と解体による終焉にまで追い詰められていきます。戦争は89年まで10年間続くことになります(アフガン侵攻)。

アフガン侵攻はイスラム勢力に対して親ソ政権を支援するのが目的でしたが、国内革命で親米・脱イスラムの世俗主義的政権が倒されたのが、やはりこの年に起きたイラン革命でした。シーア派のホメイニが初代最高指導者となりました。

同年イランの首都テヘランで学生グループがアメリカ大使館を占拠し外交官らを拘束、444日間にわたり人質にとりました。かれらが開放されたのは1981年、偶々前年に選出されたロナルド・レーガンの就任の当日でした(イランアメリカ大使館人質事件)。



1985年にはレーガンの二度目の任期がはじまり、またソビエト連邦ではゴルバチョフ書記長が共産党書記長に就任。年末には両者が会談を行いました。日本国内では、ボーイング社による修理ミスがもとで日航機123便が群馬県高天原山に墜落、乗客524人のうち520人が亡くなりました(日本航空123便墜落事故)。また茨城県の筑波研究学園都市(現つくば市)で科学博覧会が開催されました(つくば万博)。




                             
 

参考

http://ghibli.jpn.org/report/doraemon/



2018年10月19日金曜日

ドラえもんとマリオ

Animae Parallelae I
アニマエ・パラッレラエ~並行霊魂  其の一

 2016年リオ五輪閉会式・東京五輪告知映像に登場したキャラクターを比較します。





リオ五輪閉会式・東京五輪告知映像




土管のつながり


 2016年リオデジャネイロ五輪の閉会式で、2020年東京五輪にむけての五輪旗引き継ぎ式のさいに上映された映像は、日本のアニメやゲームのキャラクターを大胆に取り上げた斬新なもので、国内外で話題になりました。そのクライマックスで、ドラえもんとマリオが協力して土管を使う場面があり、東京とリオをつなぎ、また仮想と現実の世界をつなぐ道具として使われていました。









 マリオの生みの親・宮本茂さんは、マリオのゲームに登場する土管は、「昔のマンガ」の土管だと言います。ドラえもんもふくめ昔のマンガには空き地が出てきて、そこには必ず土管がおいてあった。当時日本じゅうでインフラ(社会基盤)の整備が進み、工事が行われていたことから、空き地がその資材の置き場として使われていたのです。当時のこどもたちは土管のある空き地であそぶことが多かったので、その世代の人にとっては「土管に入ってみる」ということも実地の経験だったわけです(公園の遊具でも、体を使うだけでなく、いろいろな想像の世界であそぶよすがになっていますね)。


 この映像に用いられたキャラクターたちは、インフラという「ハード」の準備を整えた日本が作り出した「ソフトパワー」の一部であり、その魅力を用いて、日本の技術力を表現した、というふうに見ることもできるのではないかと思います。もちろんいきなり土管が出てきて納得してもらえるのは、マリオのゲームが世界で遊ばれているからできたことでしょう。ドラえもんはアジアでは根強い人気がありますが欧米などではそこまで知られていませんので、映像のなかではマリオが一番有名なキャラクターとして中心的要素を担っていました。



Deraemon 100哆啦a梦 
上海でひらかれたドラえもん展のようす



まんが道



 藤子不二雄が富山県の歴史ある小都市、高岡から意を決して漫画家になるべく上京したのは昭和二十九年(1954)。日本が七年間の連合国軍による占領統治から独立して二年がたち、高度経済成長の時代がはじまろうとしていました。この年、戦後日本映画の金字塔「七人の侍」(黒澤明)と、世界にその名を知られることになる聖獣「ゴジラ」とがともに生み出されています。藤子不二雄のふたりはこの年ちょうど二十歳でした。


 ふたりの憧れと導きの星だったのが手塚治虫です。こちらもそのころまだ二十代中頃でしたが、かれらにとっては大先生でした。ファンレターを出して返事を貰ったことにはじまり、上京の二年前には兵庫に住んでいた手塚の実家を訪問していましたが、手塚はその翌年から東京都豊島区にあった木造のアパート、トキワ荘に移り住んでいました。ところが次の年ふたりが上京したあとに手塚さんはそこを引き払うことになったので、その部屋に入居することができました。手塚さんはお金が用意できないふたりのために敷金をそのまま残していったそうです。
 

 トキワ荘の仲間とは「サイボーグ009」「仮面ライダー」の石ノ森章太郎や、「おそ松くん」「天才バカボン」の赤塚不二夫たちでした。50年代当時これらのヒット作はまだ作られていませんでしたが、手塚治虫の背中を追いかけ、頼りになる先輩「テラさん」こと寺田ヒロオに助けられて、かれらはあやうく挫折を免れながら、励まし合いながら漫画を書き続けていきました。当時の様子は藤子不二雄Ⓐ、安孫子素雄さんの「まんが道」に描かれています。あまり社交的でなく「ドラえもん」のようなファンタジーを描き続けた藤子・F・不二雄こと藤本弘さんと対照的に、実生活の経験から着想を得るようになっていった我孫子さんの真骨頂といえる作品だと思います。



復興の五輪


 藤子不二雄の上京から十年後の1964年には、日本の復興を象徴する初の五輪大会、東京オリンピックが開催されました。又この年世界初の高速鉄道、東海道新幹線が開通しています。藤子不二雄はそのころもうトキワ荘を出て仲間たちと「スタジオゼロ」を設立していましたが、ここで1964年から描き始められた「オバケのQ太郎」は社会現象と言えるほどのヒット作にまで育っていきます。その媒体になったのは当時モノクロでのアニメ放送でしたが、70年代の第二回アニメ化ではカラーとなり、80年代には「ドラえもん」がやはりアニメをきっかけに成功をおさめ、国民的な人気作品になりました。



Feliz cumple a Mi SuperMario!!!
アルゼンチンの方の撮ったマリオ誕生日の写真




遊びをつくる



 宮本茂さんは1952年生まれで、東京五輪の1964年には十一歳の少年でしたが、そのころの子供たちが遊ぶときにゲームはまだありませんでした。宮本さんはずっと漫画家になりたかったそうです。本来は映画を作りたかった著名なアニメ監督や漫画家がいますが、宮本さんは漫画は競争がきびしいのであきらめ、おもちゃをつくるために入った任天堂で、ゲーム作りをしてみておなじような創作のたのしさを感じたといいます。


 1889年、任天堂の前身となる商社が京都でつくられました。賭博の道具としてタブーとなっていた花札の販売がはじまり流行していたその当時、伝統的でありながら低コストにおさえた花札を生産することで成功をおさめました。1902年には日本ではじめてトランプを販売。その後玩具の技術の高度化が進むなか若い技術者を雇い入れて試行錯誤を重ねましたが、そのなかで1977年二十四歳の宮本さんが入社します。すでにTVゲーム業界に進出していた任天堂は1980年、宮本さんに先んじて入社していた横井軍平の着想から、携帯型ゲーム機ゲームウォッチを発売し大ヒットとなります。他社も液晶ゲーム機で追随しました。



 1981年に宮本さんがアメリカの市場で売るためにアーケード用につくったゲーム「ドンキーコング」にマリオははじめて登場しました。当初からマリオは跳躍して活躍するキャラクターでした。このゲームが宮本さんがデザインした第一作目で、さいしょにつくったゲームがアメリカを意識したものであったことが、海外の人たちに遊んでもらうものをつくり、世界的展開を考えてゆくきっかけになったそうです。このドンキーコングの回路から家庭用ゲーム機をつくるという構想から、ファミリーコンピュータの開発がはじまります。ファミコンは低価格高機能で、多様なソフトに対応する汎用性の高さから人気を獲得していきます。1985年に宮本がファミコンゲームの集大成として開発した「スーパーマリオブラザーズ」は世界的ヒット作となり、ファミコン本体の普及を大きく後押し。ファミコンは当時の子供の遊びの中心になりました。



可能性のかたち


 考えてみれば、数限りないいろんなゲームができるファミコン、際限なく未来の道具がとびだすドラえもんのポケットはそっくりだとも言えます。ファミコンの機能はもちろん今からみれば限られていましたが、制限があるなかのほうが個々のアイディアが輝いていたかもしないし、体感的な可能性のひろがりは大きかったかもしれません。ドラえもんのよくできた単純な世界であればこそ、ほかのもっとダイナミックな漫画のような「インフレーション」(過剰、飽和)もなくシリーズを続けることができました。技術がますます加速度的に高まっていく時代だからこそ見直すべきなにかがそこにあるのではないでしょうか。



1964年東京五輪のポスターと2020年東京五輪告知映像







参考

https://trendy.nikkeibp.co.jp/article/special/20081001/1019315/

https://topics.nintendo.co.jp/c/article/cb4c1aca-88fb-11e6-9b38-063b7ac45a6d.html

https://www.1101.com/nintendo/miyamoto2015/

https://www.asahi.co.jp/50th/fujiko_a.html

http://bunshun.jp/articles/-/6659


https://www.nintendo.co.jp/n10/interview/game_and_watch/vol1/index2.html

藤子不二雄Ⓐさんの公式サイトで「まんが道」第一巻を読むことが出来ます。

https://fujiko-a.com/




              




 付録・歴史覚書



・1954年につくられた映画「ゴジラ」は、この年に西太平洋のビキニ環礁で米国によって行われた水爆実験で、日本の漁船第五福竜丸の乗員が被爆した事件に触発されて構想されました。この実験でビキニ環礁の住人たちは外部への移住を強いられていまだに帰ることができていません。この事件は国際的な原水爆反対運動が起こる契機となりました(第5福竜丸事件)。

・1954年、朝鮮戦争(1950~53)勃発をうけて、朝鮮半島に送られる駐留米軍の穴をうめ補完するものとしてGHQの指示でつくられた警察予備隊が、52年の保安隊への改組を経て、自衛隊として発足しました。日本国は憲法9条で戦争を放棄したものの、国際法でみとめられた自衛権は持っている、という立場を政府はとりましたが、9条の徹底による非武装中立をかかげる社会党と対立しました。

・1954年インドシナ戦争(1946~1954)がおわり、ふたたびインドシナ半島を支配するために進駐したフランス軍を、社会主義のベトナム民主共和国がしりぞけました。この戦争で米国は共産主義封じ込め政策の一環としてフランスに膨大な軍事援助を行いました。1954年ディエンビエンフーの戦でフランスの敗北が決定的となりました。

・1954年アルジェリア民族解放戦線(NLF National Liberation Front)が蜂起し、で62年までの8年間フランスとの間でアルジェリア独立戦争(1954~1962)が戦われました。現在でもアルジェリアに対する植民地政策についての認識は、フランス政治において大統領選などの争点になります。この戦争中、アルジェリアの西と東に位置するモロッコとチュニジアがともに1956年、独立運動の高まりを受け仏政府に独立を承認させました。さらに、1960年には旧フランス植民地14カ国をふくむ17カ国がアフリカで独立し、「アフリカの年」と呼ばれました。しかし国境線は欧州列強が支配する上でひかれたものであったため、その後各地で民族間の内戦が発生しました。



1964年、民主党ジョンソン政権下で、ベトナム戦争への介入拡大のための捏造事件という批判されるべき事件と、人種差別を禁じる法律の成立という大きな功績がありました。


・7月、ジョンソン政権下で公民権法が制定され、アメリカにおいて人種差別が法的に禁止されることになりました。おなじ年、前年のワシントン大行進で「I have a dream」の有名な演説を行ったキング牧師がノーベル平和賞を受賞しました。

・8月、米軍の駆逐艦が北ベトナム軍の魚雷艇に攻撃されたという、トンキン湾事件が起き、米国のベトナム戦争への本格介入、翌年からの北爆の口実となりましたが、のちにニューヨーク・タイムスの記事により捏造であることが判明しました。


五輪開会の十月十日は翌々年(1966)から「体育の日」に定められましたが、2000年からは十月の第二月曜日に変更されました。


・この五輪で柔道がはじめて五輪競技として登場し、無差別級をのぞいた全階級で日本が金メダルを獲得しました。また当時負け知らずで国内で「東洋の魔女」と呼ばれていた日本代表女子バレーチームはソ連をやぶり金メダルを獲得、のちにやぶれるまで実に公式戦258連勝を誇りました。そのほか日本選手は体操、ことにレスリングで多数優勝し、日本はアメリカ、ソ連に次いで三番目に多くの金メダルをとりました。(また、中華民国が独立した国として参加していたことを不服としてIOCを脱退していた中国は不参加で、会期中に核実験を行ってアジア初の核保有国となりました。)


・五輪開催と同年に開通した東海道新幹線は世界初の高速鉄道であり、これに続いて80年代から欧州でも高速鉄道の実用がはじまりました。新幹線は時速200メートル以上の速度で走行する旧国鉄・現JRの幹線鉄道を指します。江戸時代から日本では、京阪地区と江戸をむすぶ東海道の交通が他を圧して多かったのですが、現代でも東海道沿線地帯は人口の多い工業密集地帯です。五輪開催に際しては、音楽の公演会場としても名高い日本武道館や、今回の五輪でも改装されて使用される予定の国立代々木競技場など、大会の使用にあてるためさまざまな社会基盤がつくられました。




          




仏大統領選 植民地抑圧も論戦に (毎日新聞)
バレーボール女子日本代表”東洋の魔女”を振り返る(スパイア)
https://spaia.jp/column/volleyball/1128?page\x3d1\x3cbr

新幹線(コトバンク)
https://kotobank.jp/word/%E6%96%B0%E5%B9%B9%E7%B7%9A-81445