2018年11月24日土曜日

Kick and Jump - キャプテン翼とジャンプ

Animae Parallelae IV
アニマエ・パラッレラエ~並行霊魂  其の四

 2016年リオ五輪閉会式・東京五輪告知映像に登場したキャラクターを比較します。





リオ五輪閉会式・東京五輪告知映像




後発誌の戦略



「週刊少年ジャンプ」は、「マガジン」「サンデー」がともに発刊された1959年から9年後の1968年に創刊され、ことしで誕生から50週年をむかえました。後発となったジャンプは、すでに人気作家を抱えた両誌にネームバリューで対抗することが望めませんでした。マガジンは国民的人気漫画となった「巨人の星」や「あしたのジョー」、さらに「ゲゲゲの鬼太郎」や「天才バカボン」のような今に至るまでリメイクされている有力作品を擁していました。このことから
賞をつくって作品を公募することで新人発掘をすること、さらには読者アンケートで作家を競わせることがジャンプ独自のスタイルとなりました。新人たちは安定した技術よりも、破天荒なものをつくりだす荒削りな可能性をもちこんで、誌上で才能を開花させていきました。のちに「デビルマン」や「マジンガーZ」をつくりだす永野豪のお色気漫画「ハレンチ学園」や、本宮ひろ志の「男一匹ガキ大将」が、スキャンダルをまきおこしながらジャンプの人気を高めていきました。ジャンプは創刊から5年でマガジンを超えて、雑誌発行部数で首位に立ちました。





格闘漫画の路線




作画の上手な作家がサンデーやマガジンに集まる中、ジャンプは読者の人気があれば絵のうまさは問わないという方法で漫画を掲載していきました。若い勢いを活用するこうしたやり方を見ると、たとえばいま日本の漫画に惹かれているヨーロッパの人たちなども、専門学校を出たりして絵のうまいひとはすごく達者なのですが、そんなふうに漫画そのものの個性と面白さで作風をつくっていく環境が欠けているように見えます。日本のように漫画雑誌がたくさんあって毎週毎月読まれている状況がありません。ジャンプでは80年代に「Dr.スランプ」の鳥山明が登場してから、ポップなイメージからか女性の読者が増え、従来はもっぱら男性むけの内容だった掲載作品のスタイルにも幅がくわわってきました。ところが、そのころライバル誌のサンデーで高橋留美子の「うる星やつら」やあだち充の「タッチ」のラブコメ路線が大人気を博することになったので、ジャンプはこれに対抗してどのような方向性をとるか、内部で話し合われることになりました。同じ方向性をとって流れに乗るべきだという意見が多い中で、結論は編集長の独断によって出され、ジャンプはそれとは反対の男性的な格闘漫画を掲載していくことになりました。





アニメ化から世界へ



この路線で試行錯誤が繰り返されるなか最初にヒット作として登場してきたのが、武論尊・原哲夫の「北斗の拳」でした。続いてゆでたまごの「キン肉マン」、車田正美の「聖闘士星矢」、そして高橋陽一の「キャプテン翼」がつぎつぎと成功をおさめました。戦前から野球が国民的スポーツである日本では、しぜんと野球漫画に人気がありました。ところがこの作品はJリーグなどのなかった時代、世間にサッカーブームを作り出してしまったすごい漫画でした。この作品は、おなじ年からサンデーで連載が開始された野球漫画「タッチ」とともに、従来の「泥臭い」スポーツ漫画とは異なる「爽やかな」スポーツ漫画の走りだったのではないかと思います。欧州や南米をふくむ世界の多くの国では、日本やアメリカとはちがい、サッカーが国民的スポーツです。このことから、海外では日本のスポーツアニメのなかで、「キャプテン翼」がダントツに人気があります。南米もまたこの例にもれないことから、東京五輪の紹介映像のなかでも登場アニメのひとつに選ばれ、映像が登場したときには歓声が上がったといいます。事実世界のサッカー選手のなかにも、元スペイン代表で現在京都サガン鳥栖でプレイするフェルディナンド・トーレス選手をはじめとして、子供のころに影響を受けたり、刺激をうけてサッカーをするようになったファンが少なからずいるそうです。





競争と加工と



競争によって切磋琢磨し名声をきそうという文化は、古代ギリシアで生まれて、オリンピック競技大会の形で現在にまで伝えられています。古代の『オリンピアの祭典』の期間中には、ふだん都市国家間の戦争が絶えなかったギリシア全土が休戦状態に置かれました。平和の祭典という捉え方もこのことに根拠が求められます。このほかにもアテナイでは毎年酒神ディオニュソスに捧げる『ディオニュシア祭』において、ギリシアで盛んだった悲劇のコンテストがひらかれていました。文芸・演劇でも競技が行われ賞が与えられていたわけです。



日本には昔から「鳥獣戯画」や「北斎漫画」のような滑稽味のある単純な様式の絵の楽しみ方がありましたし、順番に内容をたどっていく絵巻物をアニメーションや漫画の前身としてとらえる見方もあります。しかし直接的には19世紀に西洋から入ってきた風刺漫画にはじまった日本の漫画は、明らかに独自の発達をとげて、「マンガ」とよばれたり、元々はアニメーションの略である「アニメ」も海外でかなり一般的な言葉になっています。まさに輸入と加工から独自なものを作り出す日本の文化らしい成り行きだと思います。





海外のファンによるジャンプ原作のアニメの主題歌カバー集
(キャプテン翼・聖闘士星矢・ドラゴンボール・スラムダンク)






フランス代表エムパペ選手が負傷した自分をキャプテン翼になぞらえたインスタグラムの投稿




参考



「君はキリアン・ツバサだ!」フランス代表の新星、エムバペが大空翼との意外な共通点を報告! 世界中から大反響https://www.soccerdigestweb.com/news/detail/id=50610
「キャプテン翼」からサッカーの素晴らしさを教えてもらった世界中のプロ選手たち
https://gigazine.net/news/20131215-football-player-influenced-captain-tsubasa/

創刊50周年「ジャンプ」伝説の元編集長が語る「鳥山明をめぐる社内政治」ASAHIdot.https://dot.asahi.com/dot/2018021300102.html?page=1
『Dr.スランプ』で「マシリト」と呼ばれた男・鳥嶋和彦の仕事哲学 #SHIFT
http://www.itmedia.co.jp/business/articles/1810/30/news005.html
外国人漫画家が語る自国の“日本漫画&アニメ”事情 産業としての成熟はこれから 山陽新聞digital
https://www.hokkaido-np.co.jp/article/242397

BS1スペシャル 「ボクらと少年ジャンプの50年」 2018.07.08

2018年11月15日木曜日

PAX-MAN~パックマンとウォー・ゲーム

Animae Parallelae III
アニマエ・パラッレラエ~並行霊魂  其の

 2016年リオ五輪閉会式・東京五輪告知映像に登場したキャラクターを比較します。





リオ五輪閉会式・東京五輪告知映像





「パクス」'pax'というラテン語は、英語の'peace'やスペイン語の'paz'のもとになった言葉で、『平和』を意味しています。一般的には、「パクス・アメリカーナ」'Pax Americana'(アメリカの平和、米国覇権下の勢力均衡)という言葉としてよく使われます。





戦争のゲーム


 『ウォー・ゲーム』(WarGames)という1983年のアメリカ映画があります。当時の世界は、1979年ソ連のアフガン侵攻を機に緊張緩和(デタント)の時代がおわり、新冷戦といわれる新たな東西緊張状態に入っていました。『ウォー・ゲーム』はありうべき核戦争をテーマに扱った映画ですが、そのように深刻な主題であるにもかかわらず、ふしぎと爽快な感覚のあるSFサスペンスです。ジョン・トラボルタが天を指すポーズでよく知られる70年代のディスコ映画『サタデー・ナイト・フィーバー』を撮った、ジョン・バダムが監督を務めました。













ゲームと偶像


 主演しているのはマシュー・ブロデリック、お気楽な青春映画『フェリスはある朝突然に』で有名になった俳優です。恋人役を演じるのはアリー・シーディ、こちらは青春群像映画『ブレックファスト・クラブ』の個性的な役で成功した女優です。いずれもジョン・ヒューズ監督の作品ですが、かれらはこうした映画の成功から、「ブラット・パック」('brat pack'若者集団)と呼ばれていました。


 この映画の冒頭で、主人公を演じるブロデリックが熱心に遊んでいるアーケードゲームが、日本のナムコ社(現バンダイナムコエンターテインメント)が1981年に発売した『ギャラガ』です。主人公は家ではじっくりと世界戦争のシミュレーションゲームをやっているのですが、『ギャラガ』は動的でスピーディなゲームで、この場面は主人公の少年の活発な側面を表現していると思います。このゲームは、1978年にタイトー社が発売して日本で社会現象的なヒット作となった『スペース・インベーダー』の系譜を継ぐシューティング・ゲームです。『スペース・インベーダー』はポップカルチャーのアイコン(偶像)として、海外のグラフィティ・アーティストにも取り上げられています。





Space invaders  

『スペース・インベーダー』と『パックマン』の壁画  






空想のおもちゃ


『スペース・インベーダー』がにじりよってくるエイリアンを少しずつ撃ちくずしてゆくゲームだったのに対して、『ギャラガ』ではカラフルなエイリアンが多彩な動きで飛び回り、プレイヤーが操作する戦闘機をかすめていきます。しかしやはり、ナムコ社の最も成功した記念碑的な作品は『パックマン』(1980)であり、リオ五輪の閉会式の映像でもこちらが取り上げられていました。ナムコ社は当時の限られたドット数で可愛らしい生き生きしたキャラクターを数多く創造して、一時代をつくりました。






I just recently finished my numbered Namco Famicom game collection!  #masayanakamura #namco #namcot #videogames #retrogaming #famicom #nintendo #pacman #galaga #digdug #xevious #mappy #ファミコン #ナムコ #中村雅哉

ファミリー・コンピュータで発売されたナムコのゲーム





当時のハリウッド映画のいくつかのなかにも、パックマンがちらりと登場しています。そのうちのいくつかを紹介します。



フット・ルース









ケビン・ベーコン主演のダンス映画『フット・ルース』(1984)は大ヒットしたケニー・ロギンスの主題歌で有名です。この映画のなかで、若者たちが大騒ぎしているなかに風紀にきびしい牧師が現れ、シーンとして場が白けるくだりで、若者が遊んでいた『パックマン』のゲームオーバーの音声が流れ、お楽しみが終わったことを表す演出に使われていました。前年の『フラッシュ・ダンス』同様に当時のMTV流行とシンクロした、音楽の存在感が強い映画です。保守的な共同体のなかで、自由を希求する若者たちがダンスを通じて新しい風を吹き込むという物語でした。おなじ物語構造の映画『ダーティ・ダンシング』(1987)は、やはりすぐれたサントラを残しつつも、メディア的な現象というより、映画そのものとして成功し愛されていると思います。



  ベスト・キッド







日系アメリカ人ミヤギさんが白人の少年ダニエルさんに空手を教える痛快な映画『ベスト・キッド』(1984)のなかで、ダニエルと恋人の仲がこじれてけんかをするゲームセンターの場面で、恋人が『パックマン』を遊んでいます。少年の精神的指導者、そして父親的存在として登場する日系人ミヤギさんは、第二次大戦中に日系人だけで構成され過酷な任務を与えられた第442連隊に所属していました(この部隊は実在し、かれらは米国人として認められるために戦いました)。また、かれの妻子はカリフォルニアの強制収容所で産褥のため亡くなったということが語られます。『ベスト・キッド4』は422連隊の懇親会の場面ではじまり、実際の帰還兵ダニエル・イノウエが登場しスピーチを行います(ミヤギさんを演じたパット・モリタ氏も強制収容所に収監されていたそうです)。監督は『ロッキー』(1976)のジョン・G・アヴィルドセンです。




トロン







1982年のSF映画『トロン』のなかにパックマンが登場することは比較的よく知られています。この場合はCGで描き込まれているので、単にゲームの筐体が登場するよりもオマージュとしてはっきりと意図的です。『トロン』ははじめてCGを本格的にとりいれた映画として知られています。CGで現実を再現しようとしたのではなく、当時の技術的な限界のなかでCG的な世界を構想しつくりだしていますから、今見ても独創的なおもしろい映像になっています。80年代らしいおとぎ話的な映画のひとつとして仕上がっていると思います。








『パックマン』はアメリカで人気がありましたから、オハイオ出身のバックナー&ガルシアというグループが『「パックマン・フィーバー』(1982)という歌を発表してヒットさせ、全米で9位を記録しました。また、パックマンが赤いリボンをつけた『ミズ・パックマン』というクローンゲームがアメリカのメーカーから発売され、のちにはナムコの公認も得ました。2000年から活動している英国のロックバンド、ゴー!チームの『ジュニア・キックスタート』という曲のビデオに、ミズ・パックマンやモンスターに扮したバンドメンバーが登場し、ニューヨークの街を追いかけっこして回ります。










坂本龍一などが参加した電子音楽グループ、YMOに在籍したミュージシャン細野晴臣はナムコのゲームが好きで、ナムコのゲームだけをアレンジした音楽のアルバムを発表しましたが、そのなかには『ギャラガ』の音楽もふくまれていました。また映画『ウォー・ゲーム』の音楽はアーサー・B・ルビンスタインによるもので、かれはこの映画の監督ジョン・バダムの作品のいくつかで音楽を担当しましたが、そのなかでも代表的なものがロイ・シャイダー主演のヘリコプター映画『ブルー・サンダー』でした。この映画は日本のテレビでもよく放映されました。





                           



付録・歴史覚書



1981年、前年の米大統領選挙で前任のカーターをやぶり勝利した結果を受け、元俳優のロナルド・レーガンが合衆国第44代大統領に就任しました。就任当日にたまたま、イランのアメリカ大使館で人質になっていた外交官らが444日ぶりに開放されました。また、就任から二ヶ月あまりあとにレーガンはワシントン路上で銃撃を受け、胸に弾丸を受けて負傷しました。レーガンは70年代のデタント(東西緊張緩和)路線をくつがえす対ソ強硬路線を敷き、経済的に追い詰められたソ連の改革をうながし、80年代末にかけて冷戦を終わらせる立役者になります。



1983年は東京ディズニーランドが開園し、任天堂のファミリーコンピュータが発売された年でした。この年の9月、韓国の民間航空機ボーイング747型がサハリン沖でソビエト連邦の戦闘機に撃墜され、日本人29人をふくむ乗員乗客269人全員が亡くなりました。1979年のソ連によるアフガン侵攻以来米ソ間の緊張が高まっており、ソ連によりスパイとみなされたのだといいます(大韓航空機撃墜事件)。又この年、レーガン政権下のアメリカにより、カリブ海西インド諸島の島国グレナダへの侵攻が行われました(グレナダ侵攻)。



奇しくも1983年の大韓航空機撃墜事件、85年の日航機墜落事故、87年の大韓航空機爆破事件という航空機の大事件が、二年おきに三つ極東アジアで発生しました。87年の爆破事件は、北朝鮮の工作員二名によって行われそのうちの一人金賢姫が逮捕されましたが、韓国の国際的信頼性を低下させ翌年のソウルオリンピックを妨害するためであったといいます。


ハワイ生まれの日系二世ダニエル・イノウエ(1924-2012)は米国への忠誠を示すため第二次大戦中米軍に志願し、陸軍の日系人部隊422連隊に参加、イタリア戦線で右腕を失いました。その後イノウエは下院、ついで上院で史上初の日系議員となります。ハワイ最大のホノルル国際空港は2017年に「ダニエル・K・イノウエ国際空港」という名前になりました。Kはイノウエ氏のミドルネーム、KENのことであり、かれの日本名は井上健でした。同空港はの真珠湾のすぐ近くにあります。






                           



インベーダー・ゲームをテーマにしたグラフィティ(落書)作品を制作する覆面アーティストのサイト
https://www.space-invaders.com/home/

グーグルで『パックマン』と検索すると、「グーグル」文字型のパックマンをあそぶことができます。

【田中圭一連載:ゼビウス編】
http://news.denfaminicogamer.jp/manga/180913
“Nisei”たちの戦争 ~日系人部隊の記録~
http://www.nhk.or.jp/gendai/articles/3650/1.html

2018年11月10日土曜日

ドラえもんと未来からの帰還

Animae Parallelae II
アニマエ・パラッレラエ~並行霊魂  其の

 2016年リオ五輪閉会式・東京五輪告知映像に登場したキャラクターを比較します。





リオ五輪閉会式・東京五輪告知映像



1979


 1985年のアメリカ映画『バック・トゥ・ザ・フューチャー』は世界中でたいへん人気があります。私も子供のころにテレビ放映で見て楽しみましたが、あとになって愛着をもって振り返るほどの関心はありませんでした。そこで客観的に見直すために、当時のわが国でよく似た立ち位置にある作品はあっただろうかと考えてみると、ほかにもいろいろ挙げられるかもしれませんが、家庭的雰囲気のなかで世代を超えて愛されている、『ドラえもん』のことがまず思い浮かびました。


 1979年に『ドラえもん』のテレビアニメの放送がはじまりましたが、73年にいちど実現して打ち切りとなった事情があったため、制作スタジオは「アルプスの少女ハイジ」の演出家・高畑勲さんの協力を得て、企画書をつくり原作者の藤本弘さん(藤子・F・不二雄)に見せて説得をしたそうです。時として深刻なテーマを扱いながらも、くりかえし素朴なまんが映画としてのアニメーションに立ち返った監督・高畑勲は、やはり素朴なスタイルの漫画を子供のために描き続けた、藤本弘の代表作の名声確立にも貢献していたわけです。



 それとはまったくちがう方向性で、ロボットアニメの様相を一新させてしまった『機動戦士ガンダム』が翌年までの放送を開始したのも、おなじ79年でした。ちなみに、この年は映画版「銀河鉄道999」や、高畑さんの手をはなれ作画家から演出家となった宮崎駿の映画第一作「カリオストロの城」が上映された、アニメーションの「当たり年」でした。



二つの空想科学譚


 サイエンス・フィクションのジャンルは、あたかも宇宙のさまざまな神秘に対する窓口のように、暗く恐ろしいものをしばしば表現しますが、80年代の文化の明るく朗らかな性質は、このジャンルでも活発で爽快なエンターテイメント作品を数多く登場させました。未来からタイムマシンに乗って主人公を助けに来る、風変わりな老人や、のんきな猫型ロボットの存在によって、卑近な日常がそれと同時に非日常でもある世界。この対比そのものがコミカルな効果を発揮しています。猫型とはいっても耳もなく、雪だるまのような体型で、世話焼きおばさんのようなドラえもん、もう一方では目つきのおかしな、白髪をふりみだした落ち着きのない変人科学者ドクが、作品に明るさを与えています。







 『バック・トゥ・ザ・フューチャー』のマーティンはのび太とちがって、おっちょこちょいではあるかもしれないが、ロックを演奏してスケボーもやる活発なタイプです。その彼が、のび太のように気弱な性格をした父親の若かりし時代にタイムスリップして、事情がこんがらがったあげく、叱咤激励して勇気をふきこむ役割になる。そうしてみると、両作品の構図はそっくりです。ドラえもんは、のび太くんの孫の孫(やしゃご)が、頼りないひいひいおじいちゃん(高祖父)のせいで傾いた家運を向上させるために、未来から連れてきたのでした。そののび太くんも、長編作品のなかではより感情表現が豊かになり、行動力も見せるようになります(もっとも、そうでなければ物語が展開しないでしょう)。


 『ドラえもん』は連載ものですから、タイムマシンによる物語構造だけでなく、一回ごとに異なる未来の道具が、個別の物語の枠を提供しますから、一回ごとがSF短編だとも言えます(とはいえ、SFというよりもおとき話のように見えることもしばしばですが)。ドラえもんのほうは時にトチ狂うことはあっても、基本的にのんびりした趣のキャラクターであり、連続ものによく合っており、科学者ドクのほうはジェットコースターのようなエンターテイメント映画にお似合いです。どちらの作品もキャラクターがよく立っていて、「ガキ大将」のステレオタイプ(紋切り型)「ビフ」と「ジャイアン」などはそっくりです。ビフは機会さえゆるすなら、あくまでも悪辣な人間であるのに対して、ジャイアンは長編のなかでは仲間の力になり、いいところを見せる。これなどは、現実の多面性をよく表していると見ることもできるでしょう。



日常と冒険


 『バック・トゥ・ザ・フューチャー』に登場する機械は基本的にはコメディ風の楽しい小道具・大道具ですが、そのうちにはいくつかとても格好よいものがあります。タイムマシンでもある車「デロリアン」は、当時流行していたラジコンのコントローラーで動き回ります。たぶんこの映画にはストレートな物欲、「車を買ってとばしたい!」というような気持ちがこめられているのではないかと思います。実際に主人公は車をほしがっていますが、かれの憧れはトヨタのハイラックスという車でした。そのほかにも、第二部のバーの場面では、任天堂のファミコンソフト「ワイルド・ガンマン」がゲームセンターの筐体として登場します。マーティンがこのゲームを得意だということが、第三部の西部劇篇の伏線になります。このモチーフは「ドラえもん」と共通していて、全体としてはドジなのび太くんの数少ない特技のひとつが、モデルガンの早撃ちで、これが長編のなかで敵とたたかう武器になります。







 『バック・トゥ・ザ・フューチャー』でもうひとつ格好よい道具が、エア・サーフボードで、これは「空を飛びたい」という素朴な気持ちを、やはり当時流行していたスケボーに結びつけたものだと思います。『ドラえもん』の道具はもっと見た目はシンプルですが、ひとつひとつに独創的なアイディアが盛り込まれています。こちらの作品で欠かせない「空を飛ぶ」道具はもちろん、「タケコプター」です。昔ながらのおもちゃ竹とんぼをSF仕立てにした、いかにもまんが的でおおらかな着想です。タイムマシンは時間を旅するための機械ですが、空間を自由に移動することができる「どこでもドア」はいかにも魔法の道具のようで、最もイメージ的に成功したドラえもんの道具の一つでしょう。


 どちらの作品にも、お茶の間のような、街の広場のような、「みんなが集まるところ」という安心感があります。その反面、変化にとぼしい型通りの世界だから平板なのですが、時間旅行の要素が物語に奥行きを与える働きをしています。マーティンは自分が偶然ひきおこしたとはいえ、父親の問題を捨て身の行動で解決し、性格の矯正にさえ成功します。こうして問題を解決して物語が終わるのですが、「ドラえもん」は基本的に終わりのない物語です。対照的に「バック・トゥ・ザ・フューチャー」は行動的な、駆け抜ける動的な物語です。ドクは主人公の年長の友人のような存在です。たとえあまり頼りにならない性格でも、そういう人がいてくれると精神的に助かるということは、人生においてじっさいにあるでしょう。ドラえもんのほうはどうかといえば、やはり「そこにいてくれる」存在です。かわいいのだが、同時にまた世話をしてくれる保護者的な性格で、そう思うと、どこかお地蔵さんのようです。


 

両作品の主人公は小学生と高校生でだいぶ年齢の開きがあり、同じ基準で論じることはできません。しかしどちらも場合も、本質的に英雄的ではなく、ただ常日ごろの問題を解決しようとあがいている日常的な人間であるという点は、重厚な叙事的作品よりもかえっていっそう普遍的なのではないでしょうか。








                             



付録・歴史覚書


1979年は1972年のニクソン訪中にはじまる米国の中国への歩み寄りが結実し、米中国交樹立が成立した年でした。日本は米国の要請により台湾との国交を結んでいたため訪中に衝撃を受け、72年ニクソンのあと田中角栄が訪中し日中共同声明で日中国交正常化を行いました。

しかし同時にこの年には、旧連合国側の社会主義国家である中国とソ連が他国へ侵攻した年でもありました。中国はベトナムに侵攻しましたが、これは中国が支援するカンボジアのポル・ポト政権を侵攻により崩壊させたベトナムに対する「懲罰」が意図されていました。中国軍はこの戦いで大きな被害を受けて年内に撤退しました(中越戦争)。

一方ソ連は、アフガニスタンの社会主義政権を支援するため同国に侵攻しましたが、これに対して米国を中心とする国々が反発し、翌年のモスクワオリンピックをボイコットする事態となりました。この事件をきっかけに70年代の「デタント」(東西陣営間の緊張緩和)はおわり「新冷戦」の時期がはじまり、ソ連は改革と解体による終焉にまで追い詰められていきます。戦争は89年まで10年間続くことになります(アフガン侵攻)。

アフガン侵攻はイスラム勢力に対して親ソ政権を支援するのが目的でしたが、国内革命で親米・脱イスラムの世俗主義的政権が倒されたのが、やはりこの年に起きたイラン革命でした。シーア派のホメイニが初代最高指導者となりました。

同年イランの首都テヘランで学生グループがアメリカ大使館を占拠し外交官らを拘束、444日間にわたり人質にとりました。かれらが開放されたのは1981年、偶々前年に選出されたロナルド・レーガンの就任の当日でした(イランアメリカ大使館人質事件



1985年にはレーガンの二度目の任期がはじまり、またソビエト連邦ではゴルバチョフ書記長が共産党書記長に就任。年末には両者が会談を行いました。日本国内では、ボーイング社による修理ミスがもとで日航機123便が群馬県高天原山に墜落、乗客524人のうち520人が亡くなりました(日本航空123便墜落事故)。また茨城県の筑波研究学園都市(現つくば市)で科学博覧会が開催されました(つくば万博)。




                             
 

参考

http://ghibli.jpn.org/report/doraemon/