2018年12月30日日曜日

じゃぽん美術帳 其一・マネと浮世絵

Art Book Japon I Manet and Ukiyo-e




エドゥアール・マネ エミール・ゾラの肖像(1868)オルセー美術館 パリ 




スペイン絵画と浮世絵


このマネによる小説家ゾラの肖像画は、1868年に描かれました。日本では前年のクーデターにより政権を取った薩長両藩が新体制の方針を定めた『五箇条の御誓文』を発表し、江戸が東京と改められた明治元年に当たっています。このときすでに日本の美術が欧州で流行していたことにおどろきます。じっさい、そのちょうど前年の1867年に第二回パリ万博がひらかれ、日本が参加しています。このとき徳川慶喜によってつかわされた次期将軍候補、フランスからみれば「プリンス」である徳川昭武(あきたけ)が、慶喜の命によりフランスに留学しているさなか、大政奉還と王政復古により政権交代がおこり、徳川幕府が消滅してしまいます。一方、万博を開催したフランスの第二帝政もまた、わずか三年後の1870年には普仏戦争にやぶれ崩壊する運命が待っていました。


幕末における南方諸藩と幕府の対立のなかで、薩摩・長州がイギリスの支援を受けていた一方、幕府はフランスとの関係を深めていました。このため1867年フランス皇帝ナポレオン三世からの書簡で、幕府に対してパリ万博への出品要請があったのです。








この万博で日本が展示した浮世絵がフランスの画家たちに衝撃を与え、かれらの芸術に大変な影響をおよぼすようになりました。一般にモネやゴッホなどの印象派に対する浮世絵の影響がよく知られていますが、マネはむしろそれよりすこし前の自然主義的な作風の画家で、17世紀のスペインの画家ベラスケスに影響されていました。この肖像画のなかには、ベラスケスによる酒神バッカスの版画が書き込まれています(右上)。その下にはマネの裸婦画「オランピア」の複製が見えます。左側には歌川国明の相撲絵が貼られています。そして画面左手には、花鳥画の描かれた屏風があります。






エドゥアール・マネ 『オランピア』(1863)オルセー美術館 パリ




裸体女性を娼婦として描いたマネの「オランピア」は、愛と美の女神ヴィーナスのような理想性を欠いたものとして、非難とスキャンダルをまきおこしました。ゾラはマネの幼馴染の友人であり、彼を支持する美術批評家の筆頭でした。ベラスケスとならんで有名なスペインの画家ゴヤは世俗的な裸体画「裸のマハ」で知られています。したがってベラスケスを通じてのスペイン絵画への言及は、「フランスのアカデミズムだけが絵画の伝統ではない」という立場の象徴ではないかと思います。その後西洋絵画の革命のために大きな役割を果たすことになる日本の美術の引用によって、さらなるだめ押しで、絵画の可能性の自由を主張しているように見えます。マネは自然主義から印象主義への移行期を代表する画家とみなされています。



ナポレオン三世と「落選展」


この1867年第二回パリ万博には、徳川幕府だけでなく、薩摩藩と佐賀藩も別々に参加しました。形としては幕府の呼びかけに応じたのでしたが、薩摩が独立した権威としてみずからをアピールしたため、幕府が日本の支配者として認知させるという意図はくじかれてしまいました。このとき薩摩は日本ではじめての勲章『薩摩琉球国勲章』をつくりナポレオン三世に贈りました。薩摩はこれに数年先立ちすでに欧州に留学生を送っており、欧州との貿易の準備も着々と進めていたのです。それでも昭武は欧州各国を訪問し、当地で王族と同等の待遇で迎えられます。帰国した昭武は新政府のもとで最後の水戸藩主となりました。



ナポレオン三世はフランス革命の英雄でのちに戴冠したナポレオン一世の甥であり、ペリー日本来航の前年である1852年皇帝となり、第二帝政をはじめました。彼の統治時代は世界経済の発展期に当たっており、この発展の恩恵を享受した国民の支持を得ていました。また軍事侵略による対外政策を行い、アジア・アフリカで植民地化を進めます
。ナポレオン三世は、官展(官設美術展)の審査がかたよっているという画家たちの抗議をみとめ、落選作品を集めた「落選展」を1863年にひらきました。ここでマネの「草上の昼食」が日常的現実のなかに裸体女性を描き込んだことで騒動をまきおこします。



しかし、この作品も実は、イタリア・ルネサンスの巨匠ラファエロの原画に基づく版画の構図に倣って描かれていました。マネは改革的な画家とみなされていますが、絵画の伝統は当時フランス画壇で主流であったものに限らない、という見方をしていたのだろうと思います。そのよりどころのひとつが世俗的な美を自由な筆致で描いたベラスケス、ゴヤのようなスペイン絵画の伝統であり、もうひとつの同時代的根拠として、西洋美術とは異なる平面的な表現による日本の美術があったのでしょう。「落選展」から二年後の1865年のサロンには、マネの「オランピア」が入選したほか、ドガモネも初入選を果たしてします。「オランピア」は世俗的裸体画ということのほかに、平面的な表現についても批判を浴びました。マネの盟友であるゾラの肖像画において、当時流行した日本の美術が「オランピア」とならんで描き込まれていることには、彼のあたらしいスタイルを正当化する意味が読み取れるのです。






 NHK 美の巨人たち・マネ作「オランピア」より






          




付録・歴史覚書


日本にアメリカ東インド艦隊司令長官ペリーが来航した1853年(嘉永6年)、大陸欧州ではクリミア戦争(1853~6)が勃発しました。この戦争は、西洋列強に南下の動きをおさえられていたロシアが『聖地管理権問題』を口実にオスマン・トルコに対してしかけたものでした。

冬の間凍らない不凍港の獲得により年間を通じて経済・軍事活動を行えるようになりたいロシアは、黒海を通り地中海に抜けるボスフォロス・ダーダネルス両海峡の支配権を確立することを狙っていました。それまでにロシアは三つの戦争に参加しましたが、そのつど終戦後に両海峡の通行権についての取り決めがなされています。

ギリシア独立戦争で通行権を獲得し、第一次エジプト・トルコ戦争で通行権の独占を達成したロシアでしたが、続く第二次エジプト・トルコ戦争の結果、両海峡の外国(トルコ以外の)軍艦の通行が禁止されてしまいます。これによりロシアは黒海から地中海へ抜ける航路を封じられてしまいました。

16世紀からフランスがもっていたエルサレム(ユダヤ・キリスト・イスラム・ギリシア正教会共通の聖地)の管理権はナポレオン戦争後ロシアにわたっていましたが、1852年、その前年にクーデターで政権をうばったナポレオン三世が国民投票で皇帝の座につき、国内キリスト教徒の支持を得るためこの権利をトルコに要求、獲得しました。

これに対して1853年、ロシアがトルコ国内のギリシア正教徒を保護する名目でトルコに宣戦したのです。15世紀にビザンツ帝国がほろびてから、ロシアがかわってギリシア正教の保護者となっていました。しかし実際にはロシアにとって、南下し地中海に達する地歩を確立することが核心的な目的でした。そのために19世紀前半にトルコがからむ三つの戦争に参加したのです。

18世紀後半にイギリスではじまった産業革命にならって工業化をすすめたいロシアは、そのための資金に欠けていました。ロシアは広い領土を活かし、麦を中心とした作物を売ることでこれを得ようと考え、販路を確保しようとしました。寒冷なロシアにとっては冬凍らない港を得ることが必要であり、具体的にはそれは黒海から地中海に抜ける航路だったのです。

しかしロシアの南下を警戒するフランスとイギリスがトルコ側について参戦したためロシアは敗北し、黒海は中立化され、南下の夢ははばまれることになります。この戦争に、まだ統一が完成していなかったイタリアがサルデーニャ王国としてトルコ側で参戦しています。これによりイタリアはフランスと同盟関係を結ぶことに成功し、1859年共同でオーストリアに対し第二次イタリア独立戦争でいどみ、中北部のロンバルディア地方をとりもどしました。

その後ガリバルディの活躍などにより1861年にようやくイタリア王国が成立しますが、まだ東北部ヴェネト地方はオーストリア、ローマはフランスの支配を受けていました。すでに英仏蘭などがアメリカ大陸やアフリカ、インド、アジアに植民地をひろく展開しており、そこに独立したアメリカが加わり活動しているなかで、イタリアはいまだに分裂状態で広い外国による支配領域をもち、統一国家をもたない状態が続いていました。

→ナブッコ~ベルディとイタリア独立運動
https://ita-logos.blogspot.com/2018/09/nabucco.html





          




参考


オルセー美術館公式サイト
https://www.musee-orsay.fr/en/collections/works-in-focus/painting/commentaire_id/emile-zola-3060.html?tx_commentaire_pi1%5BpidLi%5D=509&tx_commentaire_pi1%5Bfrom%5D=841&cHash=97ca12b598

'A Japanese print of a wrestler by Utagawa Kuniaki II completes the décor. The Far East, which revolutionised ideas on perspective and colour in European painting, played a central role in the advent of the new style of painting. A Japanese screen on the left of the picture recalls this.'

「二代目歌川国明作の力士の錦絵が、絵の背景をまとめ上げています。西洋絵画の視点と色彩についての考えを一新させた東洋美術は、あたらしい絵画様式の到来において中心的な役割を果たしました。画面左手の日本の屏風はこのことを想起させます。」(※従来二代目国明という説だそうですが、一代目という説もあります。)

1867年―パリ万博での成功を導いた幕末のオランダ貿易・有田焼創業400年事業
http://arita-episode2.jp/ja/history/history_12.html

1867年第2回パリ万博・博覧会 近代技術の展示場
http://www.ndl.go.jp/exposition/s1/1867-1.html

1867年パリ万博150周年記念展 第3期「徳川昭武の日仏交流」
https://www.city.matsudo.chiba.jp/tojo/tojo_event/tenji-event_h29/tenji_h29/Project1867_tenji/PROJECT1867_relation.html

【近現代(明治時代~)】 王政復古の大号令と五箇条の御誓文の違い
https://benesse.jp/teikitest/chu/social/social/c00765.html

明治維新:近代国家への歩み
https://www.nippon.com/ja/views/b06902/

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