2019年2月27日水曜日

ふみあゆみ・一 富山

文学史逍遥





歌川広重・六十余州名所図会『越中 冨山船橋』
嘉永六年(1853)



越の国
こしのくに


歌川広重に描かれた富山の『船橋』は現在見ることができませんが、明治初頭までは残されており、富山の代表的風物としてにぎわい、立山とならぶ越中の名所でした。

「越中」はもと「越の国(こしのくに)」が、大宝律令(701)による律令制の時代までに三つに分割されたものの一つです。「越後」はいまの新潟にあたります。「越前」は能登半島や金沢のある石川県をふくむ領域でしたが、のちに石川県北部が能登国、南部が加賀国として分割されましたので、奈良時代のはじめには残りの福井県北部、嶺北とよばれる地域が越前国となりました(南部の嶺南地方は、越前に含まれていた敦賀をのぞき、「若狭国」でした)。

「こし」という名前は、都のあった近畿地方から北方の地へと「越えて」渡るという意味だろうと言われています。越後から北は蝦夷の地であったため、越の国は大和朝廷と蝦夷の抗争の前線でもありました(7世紀半ばの阿倍比羅夫の遠征などにより大和朝廷の支配権が北に進み、いまの山形県にあたる地域が出羽国として712年に律令制に組み込まれ、のちにはこれが秋田にまで拡大しました。東北はこの出羽と、そのほかすべての地域にあたる陸奥国に二分されていました)。



大友家持
おおとものやかもち



富山県第一の都市は富山で、船橋のあった神通川も富山駅のすぐそばを貫流しています。富山第二の都市は、富山から北西に20キロほどのところにある高岡です。

歌人として知られる大伴家持は日本最古の歌集、万葉集の編纂にたずさわったと言われ、最も多くの歌が掲載されています。天平十八年(746)家持は越中国の国守として赴任しました。越中国の国府は高岡にありました。

家持は高岡に滞在した五年間の任期中、当地の風物をさまざまな歌に詠みこんだため、高岡では万葉ゆかりの地として万葉記念館を建てたり、さまざまな催しものを行っています。中央の政争からも離れて、この時期の家持は伸びのびとした歌風で、生涯で最も多くの歌を残しました。

家持は歌聖・柿本人麻呂などに次ぐ万葉集の代表的歌人ですが、同時に政府に仕える官吏でもありましたから、現代の役所勤めとおなじように、中央と地方を経巡って生活した「転勤族」でした。そんなふうにこの大歌人を見てみると、すこし可笑しい気がします。




雨晴海岸-立山連峰 女岩 Amaharashi

富山湾に面する雨晴海岸から東にのぞむ立山連峰の威容




立山に 降りおける雪を 常夏に
                               見れども飽かず 神からならし







立山
 たてやま


立山に夏を通して見えるふりつもった雪は、見飽きるということがない。神の品格というものであろう。万葉集におさめられた家持の一首です。



通称北アルプスとよばれ、富山・新潟・岐阜・長野にまたがり南北にのびる飛騨山脈の北西部、黒部川により東西に分かたれた西側の支脈が立山連峰。その主峰群、おもな山々の一群が「立山」です。


家持の時代の古名は「たちやま」。立山でも標高の高いところでは、実際夏にも残雪を見ることができるそうです。「神(かむ)から」は「人がら」のように神の性格や品格のこと。「ならし」は「なるらし」、「であるようだ」の意。
 


古来立山は霊の山であり神であるという山岳信仰がありました。平安初期(9世紀初頭)に開かれた天台・真言宗の開祖最澄・空海が山岳仏教を提唱してから、日本各地の山岳は密教僧の修行場となっていきました。

立山には平安中期に仏教の地獄・浄土思想の影響がおよび、熱泉・ガスが立ちこめ硫黄臭の漂う殺伐とした火山口周辺の光景が地獄信仰とむすびつき、地獄の世界が山中に現れると考えられるようになりました。

さらに鎌倉時代には、阿弥陀如来の山中浄土が立山に展開しているという信仰が加わりました。西洋においては14世紀初頭にイタリアでダンテが「神曲」を執筆し、地獄から天国への旅において魂を浄化する過程を描きましたが、まさにそのような試みが現実の自然のなかで修験者たちにより行われていたことになります。


家持の歌は、そのような神仏習合の山岳仏教以前の、神道の自然崇拝の時代の精神において詠まれたものでした。家持は高岡滞在中に二百を超える歌を残しましたが、中央の政治的動向からも隔てられたこの五年間は、かれの歌歴のなかでも最も多産な時期でした。






万葉線ドラえもんトラム 高岡は漫画家・藤子不二雄(藤本弘・我孫子素雄)のふるさと。
高岡では各種記念館や、自伝的作品「まんが道」ゆかりの地を訪ねることができます。


万葉線ドラえもんトラム



富山県観光公式サイト・大友家持『万葉集』ゆかりの地を巡る
https://www.info-toyama.com/s/model/80105/
富山県[立山博物館]立山信仰の世界http://www.pref.toyama.jp/branches/3043/josetu2.html
山岳信仰・コトバンク
https://kotobank.jp/word/%E5%B1%B1%E5%B2%B3%E4%BF%A1%E4%BB%B0-512986

とこなつ‐に【常夏に】gooj辞書
https://dictionary.goo.ne.jp/jn/158566/meaning/m0u/%E3%81%A8%E3%81%93%E3%81%AA%E3%81%A4/
高岡市万葉歴史館・大友家持の生涯と万葉集
https://www.manreki.com/arekore/yaka-manyou/yaka-manyou.htm

2019年2月14日木曜日

じゃぽん美術帳 其二・歌川国貞

Art Book Japon II Kunisada Utagawa




歌川国貞・今様美人揃 柏屋楼 お谷 
文久三年(1863)ボストン美術館蔵



以前紹介した、マネによる小説家ゾラの肖像(1868)に描き込まれた相撲絵の作者は歌川国明でしたが、国明は三代目歌川豊国(国貞)の弟子でした。国貞は初代歌川豊国の弟子です。歌川派の始祖は、豊国の師匠である歌川豊春。豊春は西洋絵画の遠近法を研究し、浮世絵に奥行きの表現を取り入れて、のちの広重や北斎が発展させる作風の基礎をつくりました。その広重らの作品が今度は欧州に伝えられて、近代芸術の展開に大きな影響を与えることになります。




「阿蘭陀フランスカノ伽藍之図」 豊春
豊春が西洋の銅版画を元に製作した浮世絵。






国貞は当時広重にもまさる人気作家であったそうです。かれの作品にからめて、いくつかの東京の場所について書いてみたいと思います





愛宕山
あたごやま



東都名所合・愛宕山 安政一年(1854)



曲垣平九郎
まがきへいくろう



この絵からは、高さで足がすくんでおよび腰になっている女性の視点が感覚的によく伝わってきます。この階段は「出世の石段」として知られています。
愛宕神社は全国に数多くの分社をもち、総本社は京都にあります。東京の愛宕神社は23区内で一番高い海抜26メートルの愛宕山の頂きにあり、北に皇居霞が関・日比谷公園、南に徳川家の菩提寺・芝東照宮のある芝公園や東京タワーをのぞむ位置にあります。

京都の総本社のほうは上方落語の「愛宕山」の舞台になっていますが、東京の愛宕神社は、講談の「寛永三馬術」に出てくる曲垣平九郎の故事で知られています。

寛永十一年(1634)に徳川幕府の三代将軍家光が、将軍家の菩提寺である増上寺に参詣した帰りみちに、愛宕神社の下を通りかかります。そのとき愛宕山に咲く梅の花を目に止めた家光は、馬に乗ったままで石段をのぼってとってくるように家来たちに命じました。

だれも名乗り出る者がない中で、まったく無名の者が石段を馬で駆け上がり、梅の枝を手折ってもどりました。家光は平九郎を讃え、かれの名声はまたたくまに知れ渡ったといいます。この石段は急なものですが、明治・大正・昭和と実際に挑戦して成功した馬術家たちがおり、昭和のときはテレビ番組の企画でその模様が放送されたそうです。







「曲垣平九郎」の物語が、藤子不二雄A(安孫子素雄)の自伝的作品「まんが道」あすなろ編にちらりと登場します。終戦直前の昭和十九年(1944)小学五年生のときに転校して、のちに「ドラえもん」を描くことになる藤子・F・不二雄(藤本弘)と出会った我孫子さんは、藤本さんの漫画の才能にひかれて友達同士になりました。


ある時ふたりは、藤本さんがつくった手作り映写機「幻灯機」で上映する絵物語をお互いにつくろうと言い合いました。どうしても案が浮かばない我孫子さんが自分のうちにあった「曲垣平九郎」の絵本の挿絵を模写する、という場面があります。

当時の子供にはなんらかの形で、講談を通じてではないかもしれないが、まだこの物語がなじみのものであった可能性があるということですね。戦後の世代にとっては、このお話はちょっと縁のないものになっていると思います。しかし、昨今また講談に光が当たりつつありますから、それもまたすこし変わってくるのかもしれません。



日本橋

にほんばし




東海道・日本橋  文久三年(1863)



日本橋川にかかる古い橋。この橋と日本橋の町は東京駅をはさんで皇居の反対側で、東京湾のがわにあります。橋を渡り、神田駅の高架橋下をくぐって北に向かうと、1.5キロほどで神田川にかかる万世橋に至り、そこを渡ると秋葉原に出ます。日本橋川は神田川の支流で、永代橋のほとりで隅田川に注ぎます。




広重ー東海道五十三次・日本橋・朝之景
天保三年/四年(1833・34)



この絵を名高い広重の日本橋の絵とくらべると中々おもしろく、つくられたのは後の年代ですが、時間的に直前の場面のように見えます。大名行列が太鼓橋のむこうから見えてくるところを描くことで、動きのなかの瞬間であることが示唆されています。「ザッザッ」という行列の足音や、人々のざわめきを書き入れれば、漫画の一コマにもなりそうな絵柄です。


日本橋は徳川家康が江戸幕府をひらいた1603年に架けられ、五街道の起点としておかれました。代々、木製の橋が架け替えられましたが、1911年(明治44年)にようやく今の石橋がつくられました。震災や戦火もくぐりぬけたこの橋は重要文化財にも指定されましたが、東京五輪を翌年にひかえた1963年に首都高がその上を覆ってしまいました。2018年、橋の上の空を開放するため、首都高の地下化が五輪後に着工されることが決まりました。


日本橋は現代でも、七本の国道の起点として、日本の中心としての位置を占めています。首都高の地下化は3200億円を要し、完成までには10年以上の年月が必要だと見込まれています。工事が完了した暁には、日本橋は新しく日本の名所として生まれ変わるのでしょうか。







錦絵でたのしむ江戸の名所・歌川国貞
http://www.ndl.go.jp/landmarks/artists/utagawa-kunisada-1/
愛宕神社公式サイト
http://www.atago-jinja.com/trivia/
日本橋の真上に首都高・・・意外と知られていない真相
https://www.yomiuri.co.jp/fukayomi/ichiran/20180910-OYT8T50013.html
Otani at the Kashiwaya-rô - Museum of Fine Arts Boston
https://www.mfa.org/collections/object/otani-at-the-kashiwaya-r%C3%B4-from-the-series-an-assortment-of-beauties-in-the-modern-style-imay%C3%B4-bijin-zoroe-464428

2018年12月30日日曜日

じゃぽん美術帳 其一・マネと浮世絵

Art Book Japon I Manet and Ukiyo-e




エドゥアール・マネ エミール・ゾラの肖像(1868)オルセー美術館 パリ 




スペイン絵画と浮世絵


このマネによる小説家ゾラの肖像画は、1868年に描かれました。日本では前年のクーデターにより政権を取った薩長両藩が新体制の方針を定めた『五箇条の御誓文』を発表し、江戸が東京と改められた明治元年に当たっています。このときすでに日本の美術が欧州で流行していたことにおどろきます。じっさい、そのちょうど前年の1867年に第二回パリ万博がひらかれ、日本が参加しています。このとき徳川慶喜によってつかわされた次期将軍候補、フランスからみれば「プリンス」である徳川昭武(あきたけ)が、慶喜の命によりフランスに留学しているさなか、大政奉還と王政復古により政権交代がおこり、徳川幕府が消滅してしまいます。一方、万博を開催したフランスの第二帝政もまた、わずか三年後の1870年には普仏戦争にやぶれ崩壊する運命が待っていました。


幕末における南方諸藩と幕府の対立のなかで、薩摩・長州がイギリスの支援を受けていた一方、幕府はフランスとの関係を深めていました。このため1867年フランス皇帝ナポレオン三世からの書簡で、幕府に対してパリ万博への出品要請があったのです。








この万博で日本が展示した浮世絵がフランスの画家たちに衝撃を与え、かれらの芸術に大変な影響をおよぼすようになりました。一般にモネやゴッホなどの印象派に対する浮世絵の影響がよく知られていますが、マネはむしろそれよりすこし前の自然主義的な作風の画家で、17世紀のスペインの画家ベラスケスに影響されていました。この肖像画のなかには、ベラスケスによる酒神バッカスの版画が書き込まれています(右上)。その下にはマネの裸婦画「オランピア」の複製が見えます。左側には歌川国明の相撲絵が貼られています。そして画面左手には、花鳥画の描かれた屏風があります。






エドゥアール・マネ 『オランピア』(1863)オルセー美術館 パリ




裸体女性を娼婦として描いたマネの「オランピア」は、愛と美の女神ヴィーナスのような理想性を欠いたものとして、非難とスキャンダルをまきおこしました。ゾラはマネの幼馴染の友人であり、彼を支持する美術批評家の筆頭でした。ベラスケスとならんで有名なスペインの画家ゴヤは世俗的な裸体画「裸のマハ」で知られています。したがってベラスケスを通じてのスペイン絵画への言及は、「フランスのアカデミズムだけが絵画の伝統ではない」という立場の象徴ではないかと思います。その後西洋絵画の革命のために大きな役割を果たすことになる日本の美術の引用によって、さらなるだめ押しで、絵画の可能性の自由を主張しているように見えます。マネは自然主義から印象主義への移行期を代表する画家とみなされています。



ナポレオン三世と「落選展」


この1867年第二回パリ万博には、徳川幕府だけでなく、薩摩藩と佐賀藩も別々に参加しました。形としては幕府の呼びかけに応じたのでしたが、薩摩が独立した権威としてみずからをアピールしたため、幕府が日本の支配者として認知させるという意図はくじかれてしまいました。このとき薩摩は日本ではじめての勲章『薩摩琉球国勲章』をつくりナポレオン三世に贈りました。薩摩はこれに数年先立ちすでに欧州に留学生を送っており、欧州との貿易の準備も着々と進めていたのです。それでも昭武は欧州各国を訪問し、当地で王族と同等の待遇で迎えられます。帰国した昭武は新政府のもとで最後の水戸藩主となりました。



ナポレオン三世はフランス革命の英雄でのちに戴冠したナポレオン一世の甥であり、ペリー日本来航の前年である1852年皇帝となり、第二帝政をはじめました。彼の統治時代は世界経済の発展期に当たっており、この発展の恩恵を享受した国民の支持を得ていました。また軍事侵略による対外政策を行い、アジア・アフリカで植民地化を進めます
。ナポレオン三世は、官展(官設美術展)の審査がかたよっているという画家たちの抗議をみとめ、落選作品を集めた「落選展」を1863年にひらきました。ここでマネの「草上の昼食」が日常的現実のなかに裸体女性を描き込んだことで騒動をまきおこします。



しかし、この作品も実は、イタリア・ルネサンスの巨匠ラファエロの原画に基づく版画の構図に倣って描かれていました。マネは改革的な画家とみなされていますが、絵画の伝統は当時フランス画壇で主流であったものに限らない、という見方をしていたのだろうと思います。そのよりどころのひとつが世俗的な美を自由な筆致で描いたベラスケス、ゴヤのようなスペイン絵画の伝統であり、もうひとつの同時代的根拠として、西洋美術とは異なる平面的な表現による日本の美術があったのでしょう。「落選展」から二年後の1865年のサロンには、マネの「オランピア」が入選したほか、ドガモネも初入選を果たしてします。「オランピア」は世俗的裸体画ということのほかに、平面的な表現についても批判を浴びました。マネの盟友であるゾラの肖像画において、当時流行した日本の美術が「オランピア」とならんで描き込まれていることには、彼のあたらしいスタイルを正当化する意味が読み取れるのです。






 NHK 美の巨人たち・マネ作「オランピア」より






          




付録・歴史覚書


日本にアメリカ東インド艦隊司令長官ペリーが来航した1853年(嘉永6年)、大陸欧州ではクリミア戦争(1853~6)が勃発しました。この戦争は、西洋列強に南下の動きをおさえられていたロシアが『聖地管理権問題』を口実にオスマン・トルコに対してしかけたものでした。

冬の間凍らない不凍港の獲得により年間を通じて経済・軍事活動を行えるようになりたいロシアは、黒海を通り地中海に抜けるボスフォロス・ダーダネルス両海峡の支配権を確立することを狙っていました。それまでにロシアは三つの戦争に参加しましたが、そのつど終戦後に両海峡の通行権についての取り決めがなされています。

ギリシア独立戦争で通行権を獲得し、第一次エジプト・トルコ戦争で通行権の独占を達成したロシアでしたが、続く第二次エジプト・トルコ戦争の結果、両海峡の外国(トルコ以外の)軍艦の通行が禁止されてしまいます。これによりロシアは黒海から地中海へ抜ける航路を封じられてしまいました。

16世紀からフランスがもっていたエルサレム(ユダヤ・キリスト・イスラム・ギリシア正教会共通の聖地)の管理権はナポレオン戦争後ロシアにわたっていましたが、1852年、その前年にクーデターで政権をうばったナポレオン三世が国民投票で皇帝の座につき、国内キリスト教徒の支持を得るためこの権利をトルコに要求、獲得しました。

これに対して1853年、ロシアがトルコ国内のギリシア正教徒を保護する名目でトルコに宣戦したのです。15世紀にビザンツ帝国がほろびてから、ロシアがかわってギリシア正教の保護者となっていました。しかし実際にはロシアにとって、南下し地中海に達する地歩を確立することが核心的な目的でした。そのために19世紀前半にトルコがからむ三つの戦争に参加したのです。

18世紀後半にイギリスではじまった産業革命にならって工業化をすすめたいロシアは、そのための資金に欠けていました。ロシアは広い領土を活かし、麦を中心とした作物を売ることでこれを得ようと考え、販路を確保しようとしました。寒冷なロシアにとっては冬凍らない港を得ることが必要であり、具体的にはそれは黒海から地中海に抜ける航路だったのです。

しかしロシアの南下を警戒するフランスとイギリスがトルコ側について参戦したためロシアは敗北し、黒海は中立化され、南下の夢ははばまれることになります。この戦争に、まだ統一が完成していなかったイタリアがサルデーニャ王国としてトルコ側で参戦しています。これによりイタリアはフランスと同盟関係を結ぶことに成功し、1859年共同でオーストリアに対し第二次イタリア独立戦争でいどみ、中北部のロンバルディア地方をとりもどしました。

その後ガリバルディの活躍などにより1861年にようやくイタリア王国が成立しますが、まだ東北部ヴェネト地方はオーストリア、ローマはフランスの支配を受けていました。すでに英仏蘭などがアメリカ大陸やアフリカ、インド、アジアに植民地をひろく展開しており、そこに独立したアメリカが加わり活動しているなかで、イタリアはいまだに分裂状態で広い外国による支配領域をもち、統一国家をもたない状態が続いていました。

→ナブッコ~ベルディとイタリア独立運動
https://ita-logos.blogspot.com/2018/09/nabucco.html





          




参考


オルセー美術館公式サイト
https://www.musee-orsay.fr/en/collections/works-in-focus/painting/commentaire_id/emile-zola-3060.html?tx_commentaire_pi1%5BpidLi%5D=509&tx_commentaire_pi1%5Bfrom%5D=841&cHash=97ca12b598

'A Japanese print of a wrestler by Utagawa Kuniaki II completes the décor. The Far East, which revolutionised ideas on perspective and colour in European painting, played a central role in the advent of the new style of painting. A Japanese screen on the left of the picture recalls this.'

「二代目歌川国明作の力士の錦絵が、絵の背景をまとめ上げています。西洋絵画の視点と色彩についての考えを一新させた東洋美術は、あたらしい絵画様式の到来において中心的な役割を果たしました。画面左手の日本の屏風はこのことを想起させます。」(※従来二代目国明という説だそうですが、一代目という説もあります。)

1867年―パリ万博での成功を導いた幕末のオランダ貿易・有田焼創業400年事業
http://arita-episode2.jp/ja/history/history_12.html

1867年第2回パリ万博・博覧会 近代技術の展示場
http://www.ndl.go.jp/exposition/s1/1867-1.html

1867年パリ万博150周年記念展 第3期「徳川昭武の日仏交流」
https://www.city.matsudo.chiba.jp/tojo/tojo_event/tenji-event_h29/tenji_h29/Project1867_tenji/PROJECT1867_relation.html

【近現代(明治時代~)】 王政復古の大号令と五箇条の御誓文の違い
https://benesse.jp/teikitest/chu/social/social/c00765.html

明治維新:近代国家への歩み
https://www.nippon.com/ja/views/b06902/

2018年11月24日土曜日

Kick and Jump - キャプテン翼とジャンプ

Animae Parallelae IV
アニマエ・パラッレラエ~並行霊魂  其の四

 2016年リオ五輪閉会式・東京五輪告知映像に登場したキャラクターを比較します。





リオ五輪閉会式・東京五輪告知映像




後発誌の戦略



「週刊少年ジャンプ」は、「マガジン」「サンデー」がともに発刊された1959年から9年後の1968年に創刊され、ことしで誕生から50週年をむかえました。後発となったジャンプは、すでに人気作家を抱えた両誌にネームバリューで対抗することが望めませんでした。マガジンは国民的人気漫画となった「巨人の星」や「あしたのジョー」、さらに「ゲゲゲの鬼太郎」や「天才バカボン」のような今に至るまでリメイクされている有力作品を擁していました。このことから
賞をつくって作品を公募することで新人発掘をすること、さらには読者アンケートで作家を競わせることがジャンプ独自のスタイルとなりました。新人たちは安定した技術よりも、破天荒なものをつくりだす荒削りな可能性をもちこんで、誌上で才能を開花させていきました。のちに「デビルマン」や「マジンガーZ」をつくりだす永野豪のお色気漫画「ハレンチ学園」や、本宮ひろ志の「男一匹ガキ大将」が、スキャンダルをまきおこしながらジャンプの人気を高めていきました。ジャンプは創刊から5年でマガジンを超えて、雑誌発行部数で首位に立ちました。





格闘漫画の路線




作画の上手な作家がサンデーやマガジンに集まる中、ジャンプは読者の人気があれば絵のうまさは問わないという方法で漫画を掲載していきました。若い勢いを活用するこうしたやり方を見ると、たとえばいま日本の漫画に惹かれているヨーロッパの人たちなども、専門学校を出たりして絵のうまいひとはすごく達者なのですが、そんなふうに漫画そのものの個性と面白さで作風をつくっていく環境が欠けているように見えます。日本のように漫画雑誌がたくさんあって毎週毎月読まれている状況がありません。ジャンプでは80年代に「Dr.スランプ」の鳥山明が登場してから、ポップなイメージからか女性の読者が増え、従来はもっぱら男性むけの内容だった掲載作品のスタイルにも幅がくわわってきました。ところが、そのころライバル誌のサンデーで高橋留美子の「うる星やつら」やあだち充の「タッチ」のラブコメ路線が大人気を博することになったので、ジャンプはこれに対抗してどのような方向性をとるか、内部で話し合われることになりました。同じ方向性をとって流れに乗るべきだという意見が多い中で、結論は編集長の独断によって出され、ジャンプはそれとは反対の男性的な格闘漫画を掲載していくことになりました。





アニメ化から世界へ



この路線で試行錯誤が繰り返されるなか最初にヒット作として登場してきたのが、武論尊・原哲夫の「北斗の拳」でした。続いてゆでたまごの「キン肉マン」、車田正美の「聖闘士星矢」、そして高橋陽一の「キャプテン翼」がつぎつぎと成功をおさめました。戦前から野球が国民的スポーツである日本では、しぜんと野球漫画に人気がありました。ところがこの作品はJリーグなどのなかった時代、世間にサッカーブームを作り出してしまったすごい漫画でした。この作品は、おなじ年からサンデーで連載が開始された野球漫画「タッチ」とともに、従来の「泥臭い」スポーツ漫画とは異なる「爽やかな」スポーツ漫画の走りだったのではないかと思います。欧州や南米をふくむ世界の多くの国では、日本やアメリカとはちがい、サッカーが国民的スポーツです。このことから、海外では日本のスポーツアニメのなかで、「キャプテン翼」がダントツに人気があります。南米もまたこの例にもれないことから、東京五輪の紹介映像のなかでも登場アニメのひとつに選ばれ、映像が登場したときには歓声が上がったといいます。事実世界のサッカー選手のなかにも、元スペイン代表で現在京都サガン鳥栖でプレイするフェルディナンド・トーレス選手をはじめとして、子供のころに影響を受けたり、刺激をうけてサッカーをするようになったファンが少なからずいるそうです。





競争と加工と



競争によって切磋琢磨し名声をきそうという文化は、古代ギリシアで生まれて、オリンピック競技大会の形で現在にまで伝えられています。古代の『オリンピアの祭典』の期間中には、ふだん都市国家間の戦争が絶えなかったギリシア全土が休戦状態に置かれました。平和の祭典という捉え方もこのことに根拠が求められます。このほかにもアテナイでは毎年酒神ディオニュソスに捧げる『ディオニュシア祭』において、ギリシアで盛んだった悲劇のコンテストがひらかれていました。文芸・演劇でも競技が行われ賞が与えられていたわけです。



日本には昔から「鳥獣戯画」や「北斎漫画」のような滑稽味のある単純な様式の絵の楽しみ方がありましたし、順番に内容をたどっていく絵巻物をアニメーションや漫画の前身としてとらえる見方もあります。しかし直接的には19世紀に西洋から入ってきた風刺漫画にはじまった日本の漫画は、明らかに独自の発達をとげて、「マンガ」とよばれたり、元々はアニメーションの略である「アニメ」も海外でかなり一般的な言葉になっています。まさに輸入と加工から独自なものを作り出す日本の文化らしい成り行きだと思います。





海外のファンによるジャンプ原作のアニメの主題歌カバー集
(キャプテン翼・聖闘士星矢・ドラゴンボール・スラムダンク)






フランス代表エムパペ選手が負傷した自分をキャプテン翼になぞらえたインスタグラムの投稿




参考



「君はキリアン・ツバサだ!」フランス代表の新星、エムバペが大空翼との意外な共通点を報告! 世界中から大反響https://www.soccerdigestweb.com/news/detail/id=50610
「キャプテン翼」からサッカーの素晴らしさを教えてもらった世界中のプロ選手たち
https://gigazine.net/news/20131215-football-player-influenced-captain-tsubasa/

創刊50周年「ジャンプ」伝説の元編集長が語る「鳥山明をめぐる社内政治」ASAHIdot.https://dot.asahi.com/dot/2018021300102.html?page=1
『Dr.スランプ』で「マシリト」と呼ばれた男・鳥嶋和彦の仕事哲学 #SHIFT
http://www.itmedia.co.jp/business/articles/1810/30/news005.html
外国人漫画家が語る自国の“日本漫画&アニメ”事情 産業としての成熟はこれから 山陽新聞digital
https://www.hokkaido-np.co.jp/article/242397

BS1スペシャル 「ボクらと少年ジャンプの50年」 2018.07.08

2018年11月15日木曜日

PAX-MAN~パックマンとウォー・ゲーム

Animae Parallelae III
アニマエ・パラッレラエ~並行霊魂  其の

 2016年リオ五輪閉会式・東京五輪告知映像に登場したキャラクターを比較します。





リオ五輪閉会式・東京五輪告知映像





「パクス」'pax'というラテン語は、英語の'peace'やスペイン語の'paz'のもとになった言葉で、『平和』を意味しています。一般的には、「パクス・アメリカーナ」'Pax Americana'(アメリカの平和、米国覇権下の勢力均衡)という言葉としてよく使われます。





戦争のゲーム


 『ウォー・ゲーム』(WarGames)という1983年のアメリカ映画があります。当時の世界は、1979年ソ連のアフガン侵攻を機に緊張緩和(デタント)の時代がおわり、新冷戦といわれる新たな東西緊張状態に入っていました。『ウォー・ゲーム』はありうべき核戦争をテーマに扱った映画ですが、そのように深刻な主題であるにもかかわらず、ふしぎと爽快な感覚のあるSFサスペンスです。ジョン・トラボルタが天を指すポーズでよく知られる70年代のディスコ映画『サタデー・ナイト・フィーバー』を撮った、ジョン・バダムが監督を務めました。













ゲームと偶像


 主演しているのはマシュー・ブロデリック、お気楽な青春映画『フェリスはある朝突然に』で有名になった俳優です。恋人役を演じるのはアリー・シーディ、こちらは青春群像映画『ブレックファスト・クラブ』の個性的な役で成功した女優です。いずれもジョン・ヒューズ監督の作品ですが、かれらはこうした映画の成功から、「ブラット・パック」('brat pack'若者集団)と呼ばれていました。


 この映画の冒頭で、主人公を演じるブロデリックが熱心に遊んでいるアーケードゲームが、日本のナムコ社(現バンダイナムコエンターテインメント)が1981年に発売した『ギャラガ』です。主人公は家ではじっくりと世界戦争のシミュレーションゲームをやっているのですが、『ギャラガ』は動的でスピーディなゲームで、この場面は主人公の少年の活発な側面を表現していると思います。このゲームは、1978年にタイトー社が発売して日本で社会現象的なヒット作となった『スペース・インベーダー』の系譜を継ぐシューティング・ゲームです。『スペース・インベーダー』はポップカルチャーのアイコン(偶像)として、海外のグラフィティ・アーティストにも取り上げられています。





Space invaders  

『スペース・インベーダー』と『パックマン』の壁画  






空想のおもちゃ


『スペース・インベーダー』がにじりよってくるエイリアンを少しずつ撃ちくずしてゆくゲームだったのに対して、『ギャラガ』ではカラフルなエイリアンが多彩な動きで飛び回り、プレイヤーが操作する戦闘機をかすめていきます。しかしやはり、ナムコ社の最も成功した記念碑的な作品は『パックマン』(1980)であり、リオ五輪の閉会式の映像でもこちらが取り上げられていました。ナムコ社は当時の限られたドット数で可愛らしい生き生きしたキャラクターを数多く創造して、一時代をつくりました。






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ファミリー・コンピュータで発売されたナムコのゲーム





当時のハリウッド映画のいくつかのなかにも、パックマンがちらりと登場しています。そのうちのいくつかを紹介します。



フット・ルース









ケビン・ベーコン主演のダンス映画『フット・ルース』(1984)は大ヒットしたケニー・ロギンスの主題歌で有名です。この映画のなかで、若者たちが大騒ぎしているなかに風紀にきびしい牧師が現れ、シーンとして場が白けるくだりで、若者が遊んでいた『パックマン』のゲームオーバーの音声が流れ、お楽しみが終わったことを表す演出に使われていました。前年の『フラッシュ・ダンス』同様に当時のMTV流行とシンクロした、音楽の存在感が強い映画です。保守的な共同体のなかで、自由を希求する若者たちがダンスを通じて新しい風を吹き込むという物語でした。おなじ物語構造の映画『ダーティ・ダンシング』(1987)は、やはりすぐれたサントラを残しつつも、メディア的な現象というより、映画そのものとして成功し愛されていると思います。



  ベスト・キッド







日系アメリカ人ミヤギさんが白人の少年ダニエルさんに空手を教える痛快な映画『ベスト・キッド』(1984)のなかで、ダニエルと恋人の仲がこじれてけんかをするゲームセンターの場面で、恋人が『パックマン』を遊んでいます。少年の精神的指導者、そして父親的存在として登場する日系人ミヤギさんは、第二次大戦中に日系人だけで構成され過酷な任務を与えられた第442連隊に所属していました(この部隊は実在し、かれらは米国人として認められるために戦いました)。また、かれの妻子はカリフォルニアの強制収容所で産褥のため亡くなったということが語られます。『ベスト・キッド4』は422連隊の懇親会の場面ではじまり、実際の帰還兵ダニエル・イノウエが登場しスピーチを行います(ミヤギさんを演じたパット・モリタ氏も強制収容所に収監されていたそうです)。監督は『ロッキー』(1976)のジョン・G・アヴィルドセンです。




トロン







1982年のSF映画『トロン』のなかにパックマンが登場することは比較的よく知られています。この場合はCGで描き込まれているので、単にゲームの筐体が登場するよりもオマージュとしてはっきりと意図的です。『トロン』ははじめてCGを本格的にとりいれた映画として知られています。CGで現実を再現しようとしたのではなく、当時の技術的な限界のなかでCG的な世界を構想しつくりだしていますから、今見ても独創的なおもしろい映像になっています。80年代らしいおとぎ話的な映画のひとつとして仕上がっていると思います。








『パックマン』はアメリカで人気がありましたから、オハイオ出身のバックナー&ガルシアというグループが『「パックマン・フィーバー』(1982)という歌を発表してヒットさせ、全米で9位を記録しました。また、パックマンが赤いリボンをつけた『ミズ・パックマン』というクローンゲームがアメリカのメーカーから発売され、のちにはナムコの公認も得ました。2000年から活動している英国のロックバンド、ゴー!チームの『ジュニア・キックスタート』という曲のビデオに、ミズ・パックマンやモンスターに扮したバンドメンバーが登場し、ニューヨークの街を追いかけっこして回ります。










坂本龍一などが参加した電子音楽グループ、YMOに在籍したミュージシャン細野晴臣はナムコのゲームが好きで、ナムコのゲームだけをアレンジした音楽のアルバムを発表しましたが、そのなかには『ギャラガ』の音楽もふくまれていました。また映画『ウォー・ゲーム』の音楽はアーサー・B・ルビンスタインによるもので、かれはこの映画の監督ジョン・バダムの作品のいくつかで音楽を担当しましたが、そのなかでも代表的なものがロイ・シャイダー主演のヘリコプター映画『ブルー・サンダー』でした。この映画は日本のテレビでもよく放映されました。





                           



付録・歴史覚書



1981年、前年の米大統領選挙で前任のカーターをやぶり勝利した結果を受け、元俳優のロナルド・レーガンが合衆国第44代大統領に就任しました。就任当日にたまたま、イランのアメリカ大使館で人質になっていた外交官らが444日ぶりに開放されました。また、就任から二ヶ月あまりあとにレーガンはワシントン路上で銃撃を受け、胸に弾丸を受けて負傷しました。レーガンは70年代のデタント(東西緊張緩和)路線をくつがえす対ソ強硬路線を敷き、経済的に追い詰められたソ連の改革をうながし、80年代末にかけて冷戦を終わらせる立役者になります。



1983年は東京ディズニーランドが開園し、任天堂のファミリーコンピュータが発売された年でした。この年の9月、韓国の民間航空機ボーイング747型がサハリン沖でソビエト連邦の戦闘機に撃墜され、日本人29人をふくむ乗員乗客269人全員が亡くなりました。1979年のソ連によるアフガン侵攻以来米ソ間の緊張が高まっており、ソ連によりスパイとみなされたのだといいます(大韓航空機撃墜事件)。又この年、レーガン政権下のアメリカにより、カリブ海西インド諸島の島国グレナダへの侵攻が行われました(グレナダ侵攻)。



奇しくも1983年の大韓航空機撃墜事件、85年の日航機墜落事故、87年の大韓航空機爆破事件という航空機の大事件が、二年おきに三つ極東アジアで発生しました。87年の爆破事件は、北朝鮮の工作員二名によって行われそのうちの一人金賢姫が逮捕されましたが、韓国の国際的信頼性を低下させ翌年のソウルオリンピックを妨害するためであったといいます。


ハワイ生まれの日系二世ダニエル・イノウエ(1924-2012)は米国への忠誠を示すため第二次大戦中米軍に志願し、陸軍の日系人部隊422連隊に参加、イタリア戦線で右腕を失いました。その後イノウエは下院、ついで上院で史上初の日系議員となります。ハワイ最大のホノルル国際空港は2017年に「ダニエル・K・イノウエ国際空港」という名前になりました。Kはイノウエ氏のミドルネーム、KENのことであり、かれの日本名は井上健でした。同空港はの真珠湾のすぐ近くにあります。






                           



インベーダー・ゲームをテーマにしたグラフィティ(落書)作品を制作する覆面アーティストのサイト
https://www.space-invaders.com/home/

グーグルで『パックマン』と検索すると、「グーグル」文字型のパックマンをあそぶことができます。

【田中圭一連載:ゼビウス編】
http://news.denfaminicogamer.jp/manga/180913
“Nisei”たちの戦争 ~日系人部隊の記録~
http://www.nhk.or.jp/gendai/articles/3650/1.html

2018年11月10日土曜日

ドラえもんと未来からの帰還

Animae Parallelae II
アニマエ・パラッレラエ~並行霊魂  其の

 2016年リオ五輪閉会式・東京五輪告知映像に登場したキャラクターを比較します。





リオ五輪閉会式・東京五輪告知映像



1979


 1985年のアメリカ映画『バック・トゥ・ザ・フューチャー』は世界中でたいへん人気があります。私も子供のころにテレビ放映で見て楽しみましたが、あとになって愛着をもって振り返るほどの関心はありませんでした。そこで客観的に見直すために、当時のわが国でよく似た立ち位置にある作品はあっただろうかと考えてみると、ほかにもいろいろ挙げられるかもしれませんが、家庭的雰囲気のなかで世代を超えて愛されている、『ドラえもん』のことがまず思い浮かびました。


 1979年に『ドラえもん』のテレビアニメの放送がはじまりましたが、73年にいちど実現して打ち切りとなった事情があったため、制作スタジオは「アルプスの少女ハイジ」の演出家・高畑勲さんの協力を得て、企画書をつくり原作者の藤本弘さん(藤子・F・不二雄)に見せて説得をしたそうです。時として深刻なテーマを扱いながらも、くりかえし素朴なまんが映画としてのアニメーションに立ち返った監督・高畑勲は、やはり素朴なスタイルの漫画を子供のために描き続けた、藤本弘の代表作の名声確立にも貢献していたわけです。



 それとはまったくちがう方向性で、ロボットアニメの様相を一新させてしまった『機動戦士ガンダム』が翌年までの放送を開始したのも、おなじ79年でした。ちなみに、この年は映画版「銀河鉄道999」や、高畑さんの手をはなれ作画家から演出家となった宮崎駿の映画第一作「カリオストロの城」が上映された、アニメーションの「当たり年」でした。



二つの空想科学譚


 サイエンス・フィクションのジャンルは、あたかも宇宙のさまざまな神秘に対する窓口のように、暗く恐ろしいものをしばしば表現しますが、80年代の文化の明るく朗らかな性質は、このジャンルでも活発で爽快なエンターテイメント作品を数多く登場させました。未来からタイムマシンに乗って主人公を助けに来る、風変わりな老人や、のんきな猫型ロボットの存在によって、卑近な日常がそれと同時に非日常でもある世界。この対比そのものがコミカルな効果を発揮しています。猫型とはいっても耳もなく、雪だるまのような体型で、世話焼きおばさんのようなドラえもん、もう一方では目つきのおかしな、白髪をふりみだした落ち着きのない変人科学者ドクが、作品に明るさを与えています。







 『バック・トゥ・ザ・フューチャー』のマーティンはのび太とちがって、おっちょこちょいではあるかもしれないが、ロックを演奏してスケボーもやる活発なタイプです。その彼が、のび太のように気弱な性格をした父親の若かりし時代にタイムスリップして、事情がこんがらがったあげく、叱咤激励して勇気をふきこむ役割になる。そうしてみると、両作品の構図はそっくりです。ドラえもんは、のび太くんの孫の孫(やしゃご)が、頼りないひいひいおじいちゃん(高祖父)のせいで傾いた家運を向上させるために、未来から連れてきたのでした。そののび太くんも、長編作品のなかではより感情表現が豊かになり、行動力も見せるようになります(もっとも、そうでなければ物語が展開しないでしょう)。


 『ドラえもん』は連載ものですから、タイムマシンによる物語構造だけでなく、一回ごとに異なる未来の道具が、個別の物語の枠を提供しますから、一回ごとがSF短編だとも言えます(とはいえ、SFというよりもおとき話のように見えることもしばしばですが)。ドラえもんのほうは時にトチ狂うことはあっても、基本的にのんびりした趣のキャラクターであり、連続ものによく合っており、科学者ドクのほうはジェットコースターのようなエンターテイメント映画にお似合いです。どちらの作品もキャラクターがよく立っていて、「ガキ大将」のステレオタイプ(紋切り型)「ビフ」と「ジャイアン」などはそっくりです。ビフは機会さえゆるすなら、あくまでも悪辣な人間であるのに対して、ジャイアンは長編のなかでは仲間の力になり、いいところを見せる。これなどは、現実の多面性をよく表していると見ることもできるでしょう。



日常と冒険


 『バック・トゥ・ザ・フューチャー』に登場する機械は基本的にはコメディ風の楽しい小道具・大道具ですが、そのうちにはいくつかとても格好よいものがあります。タイムマシンでもある車「デロリアン」は、当時流行していたラジコンのコントローラーで動き回ります。たぶんこの映画にはストレートな物欲、「車を買ってとばしたい!」というような気持ちがこめられているのではないかと思います。実際に主人公は車をほしがっていますが、かれの憧れはトヨタのハイラックスという車でした。そのほかにも、第二部のバーの場面では、任天堂のファミコンソフト「ワイルド・ガンマン」がゲームセンターの筐体として登場します。マーティンがこのゲームを得意だということが、第三部の西部劇篇の伏線になります。このモチーフは「ドラえもん」と共通していて、全体としてはドジなのび太くんの数少ない特技のひとつが、モデルガンの早撃ちで、これが長編のなかで敵とたたかう武器になります。







 『バック・トゥ・ザ・フューチャー』でもうひとつ格好よい道具が、エア・サーフボードで、これは「空を飛びたい」という素朴な気持ちを、やはり当時流行していたスケボーに結びつけたものだと思います。『ドラえもん』の道具はもっと見た目はシンプルですが、ひとつひとつに独創的なアイディアが盛り込まれています。こちらの作品で欠かせない「空を飛ぶ」道具はもちろん、「タケコプター」です。昔ながらのおもちゃ竹とんぼをSF仕立てにした、いかにもまんが的でおおらかな着想です。タイムマシンは時間を旅するための機械ですが、空間を自由に移動することができる「どこでもドア」はいかにも魔法の道具のようで、最もイメージ的に成功したドラえもんの道具の一つでしょう。


 どちらの作品にも、お茶の間のような、街の広場のような、「みんなが集まるところ」という安心感があります。その反面、変化にとぼしい型通りの世界だから平板なのですが、時間旅行の要素が物語に奥行きを与える働きをしています。マーティンは自分が偶然ひきおこしたとはいえ、父親の問題を捨て身の行動で解決し、性格の矯正にさえ成功します。こうして問題を解決して物語が終わるのですが、「ドラえもん」は基本的に終わりのない物語です。対照的に「バック・トゥ・ザ・フューチャー」は行動的な、駆け抜ける動的な物語です。ドクは主人公の年長の友人のような存在です。たとえあまり頼りにならない性格でも、そういう人がいてくれると精神的に助かるということは、人生においてじっさいにあるでしょう。ドラえもんのほうはどうかといえば、やはり「そこにいてくれる」存在です。かわいいのだが、同時にまた世話をしてくれる保護者的な性格で、そう思うと、どこかお地蔵さんのようです。


 

両作品の主人公は小学生と高校生でだいぶ年齢の開きがあり、同じ基準で論じることはできません。しかしどちらも場合も、本質的に英雄的ではなく、ただ常日ごろの問題を解決しようとあがいている日常的な人間であるという点は、重厚な叙事的作品よりもかえっていっそう普遍的なのではないでしょうか。








                             



付録・歴史覚書


1979年は1972年のニクソン訪中にはじまる米国の中国への歩み寄りが結実し、米中国交樹立が成立した年でした。日本は米国の要請により台湾との国交を結んでいたため訪中に衝撃を受け、72年ニクソンのあと田中角栄が訪中し日中共同声明で日中国交正常化を行いました。

しかし同時にこの年には、旧連合国側の社会主義国家である中国とソ連が他国へ侵攻した年でもありました。中国はベトナムに侵攻しましたが、これは中国が支援するカンボジアのポル・ポト政権を侵攻により崩壊させたベトナムに対する「懲罰」が意図されていました。中国軍はこの戦いで大きな被害を受けて年内に撤退しました(中越戦争)。

一方ソ連は、アフガニスタンの社会主義政権を支援するため同国に侵攻しましたが、これに対して米国を中心とする国々が反発し、翌年のモスクワオリンピックをボイコットする事態となりました。この事件をきっかけに70年代の「デタント」(東西陣営間の緊張緩和)はおわり「新冷戦」の時期がはじまり、ソ連は改革と解体による終焉にまで追い詰められていきます。戦争は89年まで10年間続くことになります(アフガン侵攻)。

アフガン侵攻はイスラム勢力に対して親ソ政権を支援するのが目的でしたが、国内革命で親米・脱イスラムの世俗主義的政権が倒されたのが、やはりこの年に起きたイラン革命でした。シーア派のホメイニが初代最高指導者となりました。

同年イランの首都テヘランで学生グループがアメリカ大使館を占拠し外交官らを拘束、444日間にわたり人質にとりました。かれらが開放されたのは1981年、偶々前年に選出されたロナルド・レーガンの就任の当日でした(イランアメリカ大使館人質事件



1985年にはレーガンの二度目の任期がはじまり、またソビエト連邦ではゴルバチョフ書記長が共産党書記長に就任。年末には両者が会談を行いました。日本国内では、ボーイング社による修理ミスがもとで日航機123便が群馬県高天原山に墜落、乗客524人のうち520人が亡くなりました(日本航空123便墜落事故)。また茨城県の筑波研究学園都市(現つくば市)で科学博覧会が開催されました(つくば万博)。




                             
 

参考

http://ghibli.jpn.org/report/doraemon/